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小説の基本構成

朝野十字 - 2005/09


 オクチュリエの「ロシア・フォルマリズム」を読むと、シクロフスキーが異化効果を説明するとき、一種都合の良い曖昧さを持っていると言い、彼が「『手法としての芸術』においてこの概念を導入するとき、それを、詩の特徴である『形式を難解にする手法』と結び付けてもいるし、また分けてもいる」(*01)と言っている。この解釈は広く流布しているらしくて、同じような内容を他でも散見するが、私にはまったくそうは読めない。
 シクロフスキーが異化効果の概念を定義したのは、「手法としての芸術」という論文の中であり、それはその後、「散文の理論」としてまとめられた中に収録されたのだが、シクロフスキーは、ここで明らかに、詩の研究から導かれた詩の異化効果と、散文の異化効果を並べて書いているのである。なぜならば、詩に関する先行研究があり、それを足がかりにして、新しく散文の理論を発表したからである。シクロフスキーが、「詩の言葉は構成された言葉である。散文は、簡潔で理解しやすく、文法に適った普通の言葉である」(*02)と述べていることからも明らかなように、「詩の特徴である『形式を難解にする手法』」が直接に散文に当てはまらないのは当たりまえである。詩は言葉にとどまるが、散文は視点と構成によって読者の理解を迂回させるのだ。そのようにして詩には詩の技法があり、散文には散文の技法があるが、その目的はどちらも脱自動化であるのだ。なんの曖昧さもない。
 フォルマリズムの技法を、詩でも演劇でもなく、小説にあてはめるとき、言葉そのものよりも、ストーリーやプロットや構成と呼ばれるものが、そもそもの研究対象であった。
 シクロフスキーは、「散文の理論」において、コナン・ドイルの「まだらの紐をめぐる冒険」を取り上げている。彼の言葉を聴きながらも、自分なりにこのプロットを要約してみよう。
 私は、「まだらの紐をめぐる冒険」から五十二のモチーフを取り出した。(図01)この表の各列は、次の三種類のモチーフに分類されている。
  1. 犯行動機に関するモチーフ
  2. 謎に関するモチーフ
  3. 伏線に関するモチーフ
 この三つのグループをそれぞれ見ていくと、どれもが小説を縦方向に結び付けていることに気付く。A列については、まずロイロットが乱暴者であることが示され、次にジュリアとヘレンの受難が語られる。物語の中盤でそのふたつは結合され、ロイロットは金目当てに義理の娘を殺害する動機を持っていることが明らかになる。B列については、まずジプシーの存在が述べられ、口笛・金属音・まだらの紐の謎が提示される。中盤で偽の謎解きがなされ、結末で正しい答が示される。C列は、葉巻の匂いや召使を雇わないことなど、それ自体はあまり深い意味のないような曖昧な描写があり、次にホームズが家の構造や偽の呼び鈴の綱や隣の部屋に通ずる通気口を発見する。結末では、それらが正しい答を暗示する伏線であったことが示される。また、狒々や豹は毒蛇と同じインドの猛獣である。そこで、そのような視点から、図01の表をさらに大胆に要約したのが、図02である。この表からは次のことが読み取れるだろう。
  1. 偽の謎解きはすべて正しい答によって訂正される。
  2. 偽の謎解きは一行目と二行目のモチーフを間違って結び付ける。
  3. 三行目に偽の謎解きがある時、一行目のモチーフは正しい答とまったく関係がない。
  4. 謎のモチーフは、その前後のモチーフと意味的繋がりがはっきりしない孤立したモチーフである。
 シクロフスキーは、「散文の理論」で小説の構成を分類して、主人公を設定し彼の冒険を数珠繋ぎにしていく、プロットの段階的または螺旋状の展開、語り手による枠組みの中に新しいモチーフを導入する、そしてシャーロック・ホームズに見られるような、時間の中断による秘密の挿入、などを挙げている。これらはどれも引き延ばしの手法であり、引き延ばしが異化効果を生むことは彼にとって自明であるらしく、その理由は、単に、読者に緊張を強いるから、としか述べられていない。
 トリックがミステリの醍醐味であり読者の興味を惹くところであり、読者がより注意して小説を読む動機であることは明らかだろう。そして異化とは、石を石らしくする技法であり、包装され目の前を通り過ぎていく荷物を引き受け、包装を破って中のものの生々しい見えや手触りを強く掴み取ることである。だから、引き延ばしとは、単に小説が長い物語であるというだけではなくて、読者が身を入れて積極的に係わってくる必要があるし、その動機付けとしてミステリには秘密がある。つまりは、ミステリにおける秘密の挿入もまた、異化の技法であると言える。
 次に、現代のミステリである有栖川有栖の「スウェーデン館の謎」を見てみよう。この小説は六つの章から成っている。なお、「スウェーデン館の謎」を未読の方の便宜を考え、あらすじを図03に示しておく。
一章 童話作家の館なんですよ
小説の設定を説明しているようでいて、この章の機能は、全体を覆う哀愁とか謎の謎めいた感じとかのイメージの喚起である。「スウェーデン館の謎」では、子供をなくした夫婦の悲しみが語られ、それは犯行動機の伏線であると共に、小説全体を覆う哀愁のイメージを喚起しているが、これは「まだらの紐をめぐる冒険」において、事件の報告の前にロイロットの経歴が長く説明され、それが犯行動機の伏線および「まだらの紐をめぐる冒険」全体を覆う残酷で怪異なイメージを喚起しているのと同じである。そのイメージは犯人よりもむしろ第一容疑者に重なり、彼を読者に印象付ける。
二章 それが不可解でして……
この章は、事件の報告である。「スウェーデン館の謎」では語り手がスウェーデン館に到着したすぐあとで事件が起こるのに対して、「まだらの紐をめぐる冒険」はヘレンによって二年前の事件が報告されるが、第一容疑者の紹介及び真犯人の動機の暗示の次に事件の報告があることに変わりなく、読者に示されるモチーフの登場順序という観点から見て、まったく同じであると言える。
三章 このパズルは簡単そうで解けない
明らかな矛盾が提起される。「スウェーデン館の謎」では、犯行現場である離れまで、雪の上に、被害者の淑美が離れに行った片道の足跡と、リュウが一往復した足跡しかなかった。つまりリュウが犯人であるほかないと思われるが、リュウには鉄壁のアリバイがあった。一方、「まだらの紐をめぐる冒険」では、ロイロットと親しいジプシーが最も怪しく、また事件当夜、ジュリアが叫んだ「まだらの紐(バンド)」という言葉も、その夜聞こえた口笛も、ジプシーが犯人であることを指し示しているように見えるが、ジュリアの寝室は鍵が掛けられ、密室状態であり、彼女の遺体には外傷が見つからず、ジプシーがどうやって犯行を行い得たのか謎である。
四章 さあ、おじさんに話してごらん
正しい手掛かりが描かれる章である。正しい手掛かりは、いつもそれがなんであるかわからないように提出される。なんの手掛かりもないまま結末に至ると、モチーフが繋がらず、かといって、この時点でわかってしまえばそれは手掛かりでなく答になってしまうからである。モチーフを繋げ展開を引き延ばすために、ここにはそれだけではまるでわけのわからないモチーフが登場する。「スウェーデン館の謎」では、犯行現場の枕カバーがなくなっていたことと、濡れた長めの縄跳びの縄である。これに対置するのが、「まだらの紐をめぐる冒険」における、先に輪を作った犬用の鞭と、金庫の上のミルクの小皿である。
五章 早く救急車を
事件が拡大しストーリーがスケールアップする予感が示される。「スウェーデン館の謎」では、最初の被害者である淑美の妹の輝美が、同じ離れで撲殺されそうになるのだが、これは「まだらの紐をめぐる冒険」で最初の被害者のジュリアの妹のヘレンが襲われそうになることと奇妙に一致している。また、この章では、冒頭で触れられた幼い子供のころ沼に落ちて死んだルネのモチーフが再び取り出され、ルネの死が事件に関係があるのではないかと取り沙汰される。これはモチーフの動機付けを忘れてイメージの構成という点から見れば、冒頭のイメージの再現と考えられるが、そう言えば、「まだらの紐をめぐる冒険」においても、ヘレンが襲われそうになる前に、ワトソンは冒頭で触れられた放し飼いの狒々の姿を目撃し、豹の遠吠えを聞くが、これは冒頭の怪異なイメージの再現と考えられる。
六章 あなたが犯人です
正しい答の説明。伏線が指摘され、正しい手掛かりが正しい答と結び付けられる。正しい手掛かりは正しい答の一部を切り取ったものであり、そのパズルのピースが最後に正しい場所にはめこまれるのである。「スウェーデン館の謎」においては、濡れた縄跳びの縄は、離れの煙突を折り取るために使われたのであり、その理由は、朝になってリュウが離れの異変に気付いてそこまで往復したという嘘の証言を裏づけするためである。また、枕カバーはそこにいるはずのない輝美の口紅がついてしまったので犯人がそれを隠匿したのである。同様に、「まだらの紐」では、先に輪の突いた犬の鞭は、毒蛇を捕まえて金庫にしまうためであり、ミルクの皿は、毒蛇にミルクを与えて躾けるためのものだった。
 「スウェーデン館の謎」の名探偵・火村は、探偵の伝統に則り、結末で一同を一室に集めて、「このスウェーデン館で起きた痛ましい事件には、多くの不可解な点があります。私はそのすべてに説明をつけることに成功した、と考えています」(*03)と言う。私はポアロが同じようなことを言うのを何度も読んだし、ミセス・コロンボが「パズルが組み合わさる」と言うのも聞いたことがあるし、モース警部がクロスワード・パズルが大好きであるのも同じことである。私はここで、パズル好きの名探偵の長いリストを作成することもできるが、それは今の問題ではない。名探偵がパズル好きなのは、彼の個人的性格ではなく、推理小説の構成から来る要請である。推理小説は、パズルのピースを伏線として物語のあちこちにばら撒いてあり、名探偵は最後にそれをひとまとめにして見せるのである。
 名探偵はいつもこの手口を使う。たとえば「ボヘミアの醜聞」の冒頭で、ホームズは久しぶりに訪れたワトソンを見て、次のような推理をする。
  1. ワトソンは七ポンド半太った。
  2. ワトソンは医者の仕事を再開した。
  3. ワトソンは最近ずぶ濡れになった。
  4. ワトソンには不器用で不注意な女中がいた。

 対する謎解きは次のとおりである。
「事はいたって簡単だ。僕の目に嫌でも入ってくるよ、君の革靴、左内側、ちょうど火灯りに照らされたあたりの、ほぼ平行な六つの傷がね。これは明らかに、誰かが固化した泥を取り除こうと、靴底を何とも不用意にもこすったために出来たものだ。したがって、わかるかい、二つの演繹が可能だ。君は悪天候に見舞われ、かつ君のお抱えはロンドン女中の例に漏れず、靴を傷つけるほど不器用である、と。開業についてだが、とある紳士がヨードホルムを鼻につくほど匂わせ、右人差し指に硝酸銀の黒いシミをつけ、聴診器が入っていますよとこれみよがしにシルクハットの右側を膨らませて入ってきたのだよ。その人物を医療に携わっていると指摘できなければ、僕は相当のうつけ者にちがいない。」
 いとも簡単に演繹の道筋を説明してしまうので、私は笑うほかなかった。
「君の推理を聞くと、いつも可笑しいほど簡単なので、私にもたやすいと思ってしまうんだ。だけども君の引き出す論拠ひとつひとつが、説明を受けるまで何の事やら。これでも私の目も君には負けてないつもりなんだが。」(*04)
 種明かしを聞くと簡単に思えるのは、手品に共通する属性である。靴底の泥を不器用に取り除こうとした跡から、不器用な手伝いの存在を連想するのは容易だが、不器用な手伝いの存在から、ワトソンが木曜日に田舎を歩いて泥水まみれで帰宅したことを想像することは不可能である。しかしドイルのモチーフの並べ方は、常にそのような不可能事を読者に迫って、それがわからないと、だからホームズは名探偵であると言うのである。
 結局、連想には方向性があるのである。山といえば川、男といえば女、というように、双方向に働くモチーフもあるが、一方通行にしか働かない連想も数多くあるのである。ドイルは泥のついた靴を不器用に擦ったためにできた傷の方を先に思いついたに違いない。それを読者に対しては後のほうで示すのである。気付いてみれば単純な手口である。結局ワトソンは七ポンドきっかり太ったのであり、それだけが間違った推理なのだが、タネがばれてしまえば、こういうところも微妙にうまい感じがするのである。
 「まだらの紐をめぐる冒険」でも「スウェーデン館の謎」でも、同じ手口がそこかしこに見受けられるわけである。強い葉巻の匂い、偽の呼び鈴の綱と隣室に繋がる通気口、金庫の上のミルク皿、ロイロットの部屋の木の椅子の座部を熱心に観察するホームズ。あるいは、輝美が泥酔して雪山で遭難する夢を見たり、ヴェロニカが意外と力持ちであるという話。そうやって、作者が後付けで思いついたに違いない伏線や手掛かりを、読者には先にさりげなく示しておいて、名探偵は物語のラストで、ようやく謎を解き、さも自分だけに先見の明があるかのような物言いをするわけである。
 伏線や手掛かりによってモチーフを結びつけ、全体がひとつのお話であると読者を説得することは重要である。異化は細部を際立たせる技法だが、細部とは全体に対する言葉なのである。全体の把握がなければ、今注目しているある一部分が、独立したまったく無関係なものかもしれないし、そうだとすればそれは構造の理解のために注目すべき細部ではない。全体と関係がない部分に対して、全体との整合性を気にする必要はないし、そこに全体のイメージとの齟齬があっても、それが異化効果を生むどころか、単に散漫な印象を与えるだけである。
 ゆえに、プロットとかストーリーとか言われるもので全体をぎゅっと結びつけたタイプの長編小説もまた、その長さそれ自体が、異化の技法のひとつであると考えられる。プロットとかストーリーとかによって、モチーフが因果律または時系列的な繋がりを持ち、全体がひとつにまとまるから、それにしては、細部が詳細になるのである。詳細だから際立つのである。モチーフがバラバラだったら、ヤマなしオチなしイミなしなのである。つまり、この技法にとって、肝心カナメは、それがひとつの物語であることである。長編化→細部をひとつにまとめる→あるひとつの物語が豊穣な細部を持つ、という手順を経て、長編小説が異化効果を発揮するのである。
 明快なプロットやストーリーを持つ「まだらの紐をめぐる冒険」と「スウェーデン館の謎」を比較すると、否応なくその類似が目に付くわけであるが、それはモチーフの類似ではなく、モチーフの取り扱い方の類似である。とりあえず、ここではそれを、構成と呼ぼう。
 長編小説のモチーフの多くは、因果関係によって強く結び付けられているので、むしろそうでない部分が気に掛かることがある。特にミステリについては、後半の捜査方法が名探偵の気まぐれによって決まるので、順次並べられていくモチーフに特段の因果関係が感じられない場合がしばしばある。「スウェーデン館の謎」においても、第三章の最後に名探偵が登場して以降、彼の捜査手順の根拠については、彼以外にはわからない。
 そのことを確認するために、第四〜五章のモチーフを箇条書きしてみよう。
  1. 有栖から電話で事情を聞いた火村が有栖の宿泊しているペンションにやってきた。二人は雪の上の足跡を撮影した写真を見ながら、犯人が、母屋と離れの間にロープを架けて渡った可能性、林沿いに木の枝を揺らせて雪を落とし、足跡を消しながら往復した可能性について話し合うが、いずれも不自然かつ極めて困難であると退けられる。
  2. 輝美から離れの枕カバーがなくなっていたという電話が入る。
  3. 有栖と火村はスウェーデン館に行く。火村は母屋のストーブの裏にルネの虫取り網が倒れていることに気付く。
  4. リュウとヴェロニカに案内され離れを見に行く火村と有栖。火村は長いロープはないか尋ねるが、それが的外れな推理であるとも言う。次に枕カバーの話を持ち出し、枕カバー以外で、もっと大きなものがなくなっていないか尋ねるがそんなものはない。次に火村は納屋の木箱から少し長めの濡れた縄跳びの縄を見つける。火村は、犯人はそれを引っ掛けて煙突を折ったのだろう、しかし理由はわからないと言う。
  5. 雪の上の足跡について会話が交わされ、その謎は最後まで残りそうだと火村が言う。リュウは火村たちに、他の家族に会わせたいので夕食の後にまた来てくれと申し出る。
  6. ペンションに戻る途中、火村は木の枝を揺らし雪を落として足跡を消しながら移動する。有栖はそれを見ながら、昨夜ペンションにいて、唯一アリバイのないペンション経営者の一人息子、大地少年が犯人かもしれないと火村に言う。火村は大地に話を聞くことにした。
  7. 夕食時、大地はテレビで殺された淑美の写真を見て激しく動揺する。火村が話を聞くと、四年前ルネが沼に落ちて死んだ時、淑美ともう一人誰かがその沼の傍にいて、淑美に自分がここにいたことを誰にも言うなと脅されたと大地は話した。
  8. 夕食後、火村と有栖は再びスウェーデン館に行く。その途中で二人は大地の証言を検討する。スウェーデン館で、火村は昨夜の輝美の様子を質問する。壁のルネの写真の入った額縁がまた落ちて、額縁を掛けた釘の頭が欠けていて何かの弾みですぐに額縁が落ちることがわかる。輝美がバレンタインのチョコを悠介にプレゼントした話が出る。姿の見えない輝美を悠介が探しに行って、離れで誰かに殴られ瀕死の状態でいるところを発見される。輝美は意識のないまま病院に搬送される。ルネの死が事件に関わりがあるだろうことについて。輝美はなぜ離れに行ったのかについて。チョコレートの箱について。
 1.について、三十メートル超のロープを母屋から渡してそれを伝って離れに行くという荒唐無稽な推理を、名探偵・火村自身が口にする。直ちに思い出されるのは、「まだらの紐をめぐる冒険」において、金庫の上のミルクの小皿を見たホームズが、ロイロットは猫を飼っているかとヘレンに尋ね、飼ってないと言われると、豹は大きな猫だとつぶやくくだりである。どちらの名探偵もワトソンに直ちに否定されて、推理を取り下げる。結局のところ、名探偵は少し長めの濡れた縄跳びの縄またはミルクの小皿に読者の注意を向けたいのである。それが正しい手掛かりだからである。ただし、この時点でそれと正しい答を結びつけることは絶対に避けたいのである。このジレンマのため、三十メートル超のロープで離れに渡るだの、豹は大きな猫だの、すぐに否定される奇妙な推理を持ち出すのである。
 2.について、枕カバー及び先を輪にした犬用の鞭についても〔1〕と同様である。そして輝美がなぜ枕カバーのことを今まで思い出さず、このタイミングで急に思い出すかというと、構成上、ここが正しい手がかりの置かれる場所だからである。
 3.について、これは正しい答であるところの、ルネの写真が落ちたり虫取り網が倒れたりして淑美が動揺し、それがきっかけとなってルネを見殺しにしたことを白状する、ということの伏線である。伏線とは、図02の表のC列の「軽い暗示を先に与えることにより、擬似的な繋がりを作る」という手口であり、まだらの紐の正しい手掛かり分節においても、ホームズがロイロットの部屋の木の椅子の座部を熱心に観察している様子が描かれるが、その意味の判明はラストの正しい答の説明まで引き延ばされる。
 4.について、濡れた縄跳びの縄と枕カバーは正しい手掛かりで、「もっと大きなものがなくなった」は伏線である。
 5.について、リュウが共犯者であるとわかったあとで読み直すと、リュウが熱心に火村を招待して他の者に会わせるのは不自然である。「ノーウッドの建築家」の犯人がさっさと逃亡せずに自宅に潜んでいた(*05)のと同じぐらい不自然である。
 6.について、火村が大地に話を聞いてみようと言うのも、根拠薄弱である。有栖の推理はいつもどおり的外れだし、この時点で大地が重要な証人であることを火村が推理できる根拠はなにもない。作者が次に大地の証言について書きたくてたまらないから、有栖は大地の話を持ち出すし、火村も気を遣って、じゃあ話を聞いてみるかと言うのである。
 7.について、動機に関する強い伏線である。これは、この時点でこれが正しい答の一部を構成するだろうことがほぼ読者にわかる点が、いわゆる「正しい手掛かり」とは異なる。「まだらの紐をめぐる冒険」で言えば、ホームズが役場で調べた遺産相続の詳細な内容と対照される。
 8.について、作者の言いたいモチーフをぶつ切りにして並べてある。ここまでもそうだが、ここでは一段とそれがひどくなって、育子がまったく脈絡なく火村が女子学生にもてるだろうと言い出し、バレンタインデーの話を持ち出し、輝美が悠介にプレゼントしたチョコレートに話を持っていく。ものすごく無理矢理である。チョコレートの箱が決定的証拠なので、ぜがひでもその話をしたいという作者の気持ちがひしひしと伝わってくるわけである。そして、輝美が自分を殴った犯人を証言すれば火村の推理を待たずに事件は解決だが、彼女はうまいぐあいに意識を失っている。
 結局のところ、小説には二つの要請がある。すなわちファーブラ(素材)とシュジェート(構成)の二つである。ジュリアの死はヘレンがホームズに相談に来る時からさかのぼって二年前の話であり、スウェーデン館で殺人事件が発覚するのは、語り手である有栖が館に到着した翌日のことである。これらは入れ替え可能な素材だが、それが読者に示される順序は、第一容疑者の紹介と真犯人の動機の暗示の次である。素材は、リアリスティックな意味関係を持つという制約があり、ヘレンとロイロットが同居しているのは、親子だからであり、有栖が火村を呼びつけるのは友人だからである、というように意味を与えて結びつける必要があるし、意味的に繋がらないとモチーフを持ち出しにくい。一方、ミステリの冒頭には謎がなければならないし、正しい答の前に正しい手掛かりが示されなければならない。だから、結末近くで育子がまったく脈絡なくバレンタインデーの話を持ち出すのだし、そこには、因果関係が薄くなっている分、構成からの要請が透けて見えるのである。
 次に、「スウェーデン館の謎」のトリックの構造を分析すると、まず第一に、真犯人という要素がある。そして真犯人を隠す必要があるわけだが、何に対して隠すのかというと、読者に対して、である。それでは読者に対してどのように隠しているのか、ということを考えると、ロイロットが毒蛇を使ったり、ヴェロニカが淑美を突き飛ばしたとき、打ち所が悪くて死んでしまったということが事件の真相であるが、これは結末まで記述されないのである。記述されないのだから、基本的には、わからないに決まってるわけである。そして、手がかりとか伏線とかについて見てみると、動機は最初からわりとはっきり書かれているし、能力とアリバイについても、実はロイロットもヴェロニカも最初から十分怪しいのである。ロイロットはインドの猛獣に詳しいし、スウェーデン人であるヴェロニカは最初から、日本人女性に比べて上背があり力も強いというふうに紹介されている。そして二人とも明確なアリバイはない。実は、明確なアリバイのあるのは、ジプシーでありリュウである。ロイロットの屋敷は外部から侵入できないし、リュウは、ワトソンたる有栖と一緒だったのである。そして、ジプシーとリュウは、冒頭から怪しげに登場し、謎のモチーフと結び付けられ、第一容疑者となり、その上でそれを強く否定する証拠が提出される。そこで読者はそちらに謎の中心がある気がして、注目してしまうのだが、真犯人から見て、それは見当外れのあさっての方向なのである。つまり、読者を騙すという観点から見て、ロイロットが毒蛇を口笛とミルクで躾けたことや、ヴェロニカがリュウの靴を履いて輝美を負ぶったという結末の謎解きよりも、ジプシーやリュウの存在の方が重要であると言えるだろう。そこで、次に、ジプシーやリュウと真犯人との関係を考えてみると、真犯人は、ジプシーやリュウに罪を擦り付ける方向でトリックを用いているのである。それは彼ら登場人物の意図の問題ではなくて、小説における構成という意味においてである。コナン・ドイルの「ノーウッドの建築家」では、第一容疑者のマクファーレンに対して真犯人のオールデイガーが罪を擦り付けるための様々な偽装工作を自発的に行うが、それが意味するのは、作品中の登場人物の動機付けと、構成からの要請による動機付けがたまたま一致したというだけのことである。ヴェロニカはリュウを頼り彼の指示に従い、一方、オールデイガーはマクファーレンを憎み陥れようとするが、リュウとマクファーレンの両者は構成上、第一容疑者という同じ役割を担っており、その目的は真犯人から読者の目を逸らすことにある。クリスティの「白昼の悪魔」ではケネスが第一容疑者であり、彼は妻(被害者アリーナ)を殺す動機を持っており、それが、アリーナが多情な女であるという側面と結び付けられ、偽の謎解きを形成すると考えられるが、真実は、アリーナは寂しがり屋の年増女であり、若い男に騙されて金を支払ってしまい、その口封じのために殺害されるのである。つまりアリーナという人間がダブルミーニングされた謎のモチーフなのであるが、それを際立たせるためにケネスが配置されているのであり、謎を際立たせる役割を担っているモチーフがどちらなのかと問えば、それはアリーナではなくケネスであるという答になる。
 謎の構成は、第一容疑者の怪しげなイメージを冒頭で喚起しておいて、その後で、彼らが犯人ではありえない証拠を示すことによって成立している。そこには、「まだらの紐(バンド)」や「雪の上の足跡」など、両義的で孤立した謎のモチーフが登場し、事件発覚当初は第一容疑者と結び付けられ、結末においては正しい答と結び付けられる。

 シクロフスキーは、ヘレンの身に危機が迫り、彼女の身代わりにホームズたちがジュリアの寝室で犯人を待ち伏せするシーンを取り出して、これは典型的な引き延ばしの手法だと言う。(*06)また、千篇一律のホームズの短編において、同様のシーンが他の短編にも見られると言う。彼が引き合いに出した部分を並べて引用してみよう。

「まだらの紐をめぐる冒険」
この恐るべき見張りをどうして忘れることができよう? 私は音をまったく聞かなかった――呼吸の音さえも。それでもホームズが私同様に神経を張り詰め、目を見開いて、数フィート離れた場所に座っていることはわかっていた。雨戸は外のわずかな光さえも遮って、我々は完全な闇の中で待った。 外からは時折、鳥の鳴き声が聞こえ、一度は猫のような長い鳴き声が、部屋の窓の外で聞こえた。チーターは実際、野放しになっているようだ。彼方から教区の時計台の深い音色が聞こえ、十五分ごとにボーンと時を告げた。その十五分が、いかに長く感じたことか! 十二時、一時、二時、そして三時が告げられ、我々は何が起きるかと、静かに座って、ひたすら待ちつづけていた。 突然、通気口のほうから明かりが一瞬もれ、すぐ消えた。(*07)

「赤毛連盟」
 ……なんと長かったことか! 後でホームズと私のメモを比べると、どうやら一時間と十五分しかなかったらしい。私は夜も明け、暁ばかりになっていたと思いこんでいたのに。私の四肢は疲れのため、棒のようになっていた。わずかな身動きも差し控えていたのだ。神経は過度に張りつめられていた。聴力はとぎすまされていた。皆の穏やかな息遣い。大柄なジョーンズの深々と吸い込む息。メリウェザー氏のため息めいた細い息遣い。私が身を潜めている場所から、箱越しに床が見えた。すると突然、一条の閃光が目を貫いた。(*08)

 なるほどこの二つは似通っているが、他のホームズものはどうなんだろうか。この引用部分は、捜査が終了して、真相が明らかになる直前のシーンであるので、その辺りのモチーフを抜き出して比較してみよう。

 「まだらの紐をめぐる冒険」
  1. 調査を終えたホームズは険しい顔で庭を歩き推理に没頭する。
  2. 今夜ヘレンの代わりにジュリアの部屋で過ごすと告げ、段取りを説明する。
  3. 向かいの宿屋で深夜になるのを待ちつつ、これからの危険について、偽の呼び鈴の綱、通気口、固定されたベッドについて、ワトソンと話し合う。
  4. ヘレンの合図を受けてジュリアの部屋に忍び込み、暗闇で待つ。
 「赤毛連盟」
  1. 調査を終えたホームズは午後いっぱい演奏会で音楽を聴く。
  2. 今夜十時にワトソンと待ち合わせの約束をする。
  3. ワトソンは、百科事典を筆写した赤毛の男、サックス・コバーグ広場の調査、質屋のつるつる顔の店員について考える(がわからない)。
  4. ホームズ、ワトソン、それに刑事と銀行頭取が集まり、銀行の金庫室で待つ。
 「悪魔の足」
  1. 調査を終えたホームズは二日間の大半を一人きりの散歩に費やした。
  2. 変死したモーティマーの部屋から採取した粉末を燃やす実験をする。その粉末からは毒ガスが発生した。
  3. 第一の犯罪はモーティマーの仕業であること、モティーマーの変死の理由はまだ不明であることをホームズとワトソンが語り合う。
  4. ホームズは、スタンデールを呼び戻し、モーティマーの家に行ったスタンデールの後を付けていたこと、そしてそのとき目撃した一部始終を話す。
 「チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン」
  1. 不首尾に終わったミルヴァートンとの面会の後、ホームズは、半時間、じっと黙り込んでいた。
  2. ホームズはワトソンに、配管工の振りをしミルヴァートンのメイドに近づき結婚を申し込む代わりに邸内の様子を聞きだしたと語る。
  3. ホームズとワトソンは、紳士として淑女を救うためには、ミルヴァートンの家に忍び込み手紙を盗むしかないと話し合う。
  4. ミルヴァートンの家に忍び込むが、ミルヴァートンが部屋にやってきたため、カーテンの後ろに隠れて待つ。
 「ノーウッドの建築家」

  1. 調査から帰ってきたホームズは一時間ほどバイオリンを弾く。
  2. ホームズはワトソンに不首尾に終わった調査を詳しく説明する。
  3. オールデイガー邸に赴き、家の中を調べて回る。
  4. ホームズは警官を頼み、部屋の中で藁を燃やす。

 「ブルー・カーバンクル」
  1. ヘンリーの話を聞き終えたホームズはワトソンを誘って出掛ける。
  2. ホームズはバーで、ガチョウをどこから仕入れたか聞きだす。
  3. ホームズは卸売業者からガチョウをどこから仕入れたか聞き出す。
  4. ホームズは卸売場で偶然ライダーを見かけ、家に連れて行く。
 「まだらの紐をめぐる冒険」と「赤毛連盟」のモチーフの並びは、確かに非常に良く似ている。どちらも調査を終えたホームズは、しばらく一人で推理に没頭する。これは、読者に、イメージの切れ目を指示する記号のように思われる。ホームズが推理を巡らすということは、この時点ですべての手掛かりが提示済みだということであり、その後、ホームズが段取りを説明したり犯人を待ち伏せたりするということは、ホームズの頭の中では、すでに犯人の目星がついているということである。けれどもワトソンが間に入っているために、この段階では誰が犯人か読者からは隠されている。ホームズは、犯人だけでなく、犯人を追い詰める手段も思いついた様子で、今後の段取りを説明する。次に、今までの手掛かりが再度検討される。次に、暗闇で犯人を待ち伏せる。
 「悪魔の足」、「チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン」、「ノーウッドの建築家」も、調査を終えたホームズが一人で考え込むシーンがある。そして犯人の目星をつけたホームズは、ワトソンに段取りを説明したり、実際に行動を開始したりする。ホームズがどれほど積極的になるかは、犯人がどれほど消極的であるかと対応しているように見える。「まだらの紐をめぐる冒険」と「赤毛連盟」では、第二の犯罪が予想されるため、ホームズはむしろ計略を使って待ち伏せる。「悪魔の足」では、犯人に情状酌量の余地があるので、犯人を呼び戻して話をする。一方、「チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン」では、犯人の側に余裕があり、ホームズの方が危険を承知で打って出なければならない。「ノーウッドの建築家」も、犯人を待ち伏せるのではなく、燻り出さなければならない。ゆえに段取りの説明とその実行が明確には分離できないし、どこか暗いところで待ち伏せる時間もない。しかし、いずれもクライマックス直前に、何かを燃やしたり、また、クライマックスで、アクション・シーンが起こったりする。「ブルー・カーバンクル」においては、犯人はさらに消極的であり、ほとんど二次的な危険はない。ホームズは、神聖な推理の時間を端折ってまで、街中に出掛けていく。「ブルー・カーバンクル」において、ホームズがガチョウを求めて次々人と会っていく展開は、シクロフスキーの言うプリミティブな冒険譚の定型を髣髴させる。
 手掛かりの調査を終えて、真相が明らかになるまでの間、それが喚起させるイメージにはどれも共通項があるようだ。推理に没頭するホームズの姿がよく見かけられる。そしてワトソンとホームズは、しばしばそれまでの手掛かりを再検討し、読者をますます惑わせるが、犯人を前に推理を振り返ることもあるし、ホームズがまだ捜査中でワトソンだけで考えることもある。犯人がより消極的な場合は、ホームズ自身が出て行って、段階的にプロットを展開させることもある。
 暗闇で待ち伏せることは、ファーブラから来る要請であり、必ずしも常に登場するモチーフではない。ホームズが町に出掛けたり、第二の殺人事件が起こったりすることも、モチーフを引き延ばす効果がある。
 探偵小説に常に登場するのはモチーフではなく、モチーフを取り扱う技法であり、技法としての構成である。


 古き良き時代の探偵小説には、常にクライマックスで、格闘シーンや犯人との追いかけっこや、銃撃戦や、燃え上がる炎などがあった。そしてその前に暗闇で息を潜めてじっと待つことも好んで行われた。現代の推理小説である「スウェーデン館の謎」においても、第二の殺人事件(未遂)が発生し、読者はストーリーのエスカレーションを予感して緊張する。ただし、推理小説の場合、第二の殺人はたちまち直後の正しい答に回収されて、正しい答においては、やはり冒頭の事件が中核であり、第二の事件は副次的・ハプニング的なものであり、第二の事件において犯人はむしろ失敗したのであり、しかるべく結論へ向けて事件は収束して行ったのだということが明らかになる。
 第二の殺人は、クリスティの諸作品でもしばしば使われる手口であり、擬似的なストーリーのスケールアップを装い読者に緊張感を与えストーリーの中だるみを防ぎながら、その構成上の要諦は、正しい答の直前にあって、正しい答に向けて読者を動機付けることである。
 さてそうだとすると、ミステリが暗黙のうちに下敷きにしているところの、ストーリーが次第にスケールアップする、シンプル・ストーリーの定型が存在するということだろう。ミステリの後半で、読者がストーリーのエスカレーションを予感するのも、彼がそのような構成を感覚的にはよく知っているからに違いない。
 もう一度、表2のモチーフのつながりを振り返ると、A列は、〔1〕と〔2〕を示して、その後に両者が繋がる理由を説明している。B列は、A列のミステリ版の応用とでも言うべきで、〔1〕と〔2〕を偽の謎解きで結びつけ、最後に正しい答を追加している。C列は、結末の〔3〕の一部やそれを暗示する何かを事前に伏線としておいている。つまり同じひとつのモチーフを小出しにしているのである。これらに比べて、最も単純なモチーフの繋がり方は、〔1〕と〔2〕を結びつけ、さらにそれと〔3〕を結びつけるというものであろう。
 作家の乙一は、インタビューに答えて、シンプル・ストーリーをわかりやすく解説している。
小説を書く時によく「エイリアン」のことを照らし合わせて考えるんです。この作品はちょっとわかりやすくてですね。たとえば二時間の映画だったら、展開を三〇分ごと――1/4ごとに区切るという脚本の理論にのっとって作られているんです。たとえば、まず最初の三〇分でエイリアンの卵が体に付けられて、次の三〇分、つまり一時間目の区切りの時点で卵の中からエイリアンが生まれてくる。そしてその次の三〇分で襲われて、最後の三〇分で最終の決意をする、という形で「天帝妖狐」以降は、「エイリアン」のこんな脚本を思い出しつつ書いているんです。(*09)
 ここでは、「エイリアンの卵が産み付けられる」→「産み付けられたエイリアンの卵がかえる」→「卵からかえったエイリアンが人間を襲う」というふうに、最も単純な方法でモチーフが順番に繋がっていくが、しかし、すべてのシンプル・ストーリーに必ずエイリアンが登場するわけではない。
 チェーホフの「ロスチャイルドのバイオリン」(*10)は、読みやすいシンプル・ストーリーだが、主人公の心理変化に焦点が当てられている。この短編では、冒頭に気難しい棺桶屋、ヤーコフが描かれ、結末では死を目前にしてバイオリンで美しい曲を弾く温かいヤーコフが描かれ、その間にヤーコフの段階的変化が描かれている。
 ヤーコフの倹約家の面を青で、純情家の面を赤で示すと、その色合いが次第に青から赤へ変化している。そして前半は漸進的な色合いの変化が続くが、それぞれの話の区切り目のところにちょっと違う色の引っかかるようなシーンや台詞が必ず入ってるのである。ストーリーを順に箇条書きしてみよう。
  1. ヤーコフは貧乏で気難しい棺桶屋である。ヤーコフは楽隊仲間のロスチャイルドを理由もなく苛める。(ロスチャイルドはヤーコフのバイオリンの才能を尊敬していると言う)
  2. ヤーコフはいつも損をした気持ちに苛まれていた。(眠れない夜、バイオリンを爪弾くと慰められる)
 ここまでは、青が優勢であり、ただしひとまとまりの話の最後にほんの一行ほど、赤いイメージが挿入されているのを括弧内に示した。そしてこの後、マルファが病気になって、次第に青と赤のバランスが拮抗してくる。
  1. マルファが病気になったが、ヤーコフはその日一日バイオリンを弾いていた。夜になると、退屈しのぎに、毎日の損を一年分集計して帳面に書きつけた。夜が更けるにつれ、マルファの病状がいよいよ悪化して、ヤーコフは今まで彼女に優しくしてやらなかったことに不意に気付く。
  2. ヤーコフはマルファを病院に連れて行くが、医者は一目見て彼女の治療を諦める。ヤーコフはそんな医者の態度にかっとなって満面に朱を注ぎ、医者を罵るが、事態は変わらない。ヤーコフは家に帰って、事務的な態度で、マルファに物差しをあて、彼女の棺桶を作り、帳面に「二ルーブル四十カペイカ」と書き込む。
  3. マルファは、五十年前、子供が生まれたこと、ヤーコフとマルファの二人がいつも川のほとりに座って、柳の木の下で歌を歌っていたことを語る。そして子供は死んでしまったと付け加える。しかしヤーコフは、赤ん坊のことも柳の木のこともまったく思い出せず、「お前、夢でもみているのさ」と言う。
 ここまでで、二つの対照的な勢力がなんであるかが見えてくる。一方は、妻に冷たくし、一年に二百日しか働かないくせに毎日損だ損だとばかり言っている情けない男のイメージ、もう一方は、これから段々に明らかになってくるヤーコフである。後半で彼が思い出すように、昔、彼には子供がいた。そして幼くして死んでしまった。おそらく、彼が子供の棺桶を作りたがらない本当の理由もその辺りにあるのだろう。しかしこの時点では、ヤーコフはそれをまったく思い出せないでいる。
  1. ヤーコフは、マルファの葬式が非常に安上がりにできたことに満足する。
  2. その直後に激しい寂しさに襲われる。
  3. 会いに来たロスチャイルドを激しく罵る。これは冒頭のイメージの再現である。
  4. 五十年ぶりに川のほとりにやってきて、赤ん坊と柳の木を生き生きと思い出し、今までの生き方を反省する。
 〔6〕〔8〕は真っ青なイメージであり、〔7〕〔9〕は、真っ赤なイメージである。〔6〕〔7〕は短く、〔8〕〔9〕は長めである。青から赤へ漸進的変化を続けてきた色合いが、〔6〕で小さく揺り戻され、〔8〕でもう一度大きく揺り戻される。
  1. ロスチャイルドが再訪し、ヤーコフはバイオリンで美しい曲を弾いた。
  2. ヤーコフは病気で死に、ロスチャイルドにバイオリンを遺した。
 段階的な色合いの変化が順を追って示され、後半の二度の揺り戻しで、色合いの変化が強調され、結末では、イメージは真っ赤に染め上げられる。そして、ヤーコフのバイオリンが芸術の意義を象徴しているかのような俯瞰的な視点が提示され、読者は何がしかのテーマ性を感じ取るだろう。
 どうやら、シンプル・ストーリーは、変化を描いているものらしい。しかし、常に主人公の心理変化を描いているとは限らない。ハインラインの「宇宙の孤児」では、内面の心理変化よりも、社会の二つの勢力の対立に焦点が合わされている。「ロスチャイルドのバイオリン」と対照させながらストーリーを見ていこう。
  1. 冒頭では、〈船〉と呼ばれる奇妙な中世的迷信世界が描かれる。世界は曲がりなりにも安定している。この冒頭の安定を青色と呼ぼう。(主人公のヒュウはこの〈船〉の謎をどうしても知りたいという飢餓感を感じている。この欲求は、彼の意識とは別に、この世界を破滅へ向かわせるので、これが青い話の末尾に付け加えられた一滴の赤である)
  2. ヒュウは、頭の良いところを見込まれ、後見役のネルソン中尉に、科学者になることを勧められる。科学者はこの世界の指導層である。ネルソン中尉は、ヒュウのような優秀な若者に取るべき方法は二つしかない、管理する側に取り込むか、転換炉送り(転換炉とはなんでも燃料にできる船のエンジンで、転換炉送りとは処刑するという意味である)かであると言うが、これは単にモチーフの動機付けというだけでなく、この小説の構成をも言い当てている。この小説は、安定した世界が破滅するまでの変化を描いており、ヒュウが管理する側に取り込まれることは、世界が安定する方向を指し示しており、だからこれは青い話である。(ヒュウは、見習いとして機関長補のビルの下で働くようになるが、ビルたち若者は、ネルソン中尉たち古い世代と違う考え方を持っていた。〈船〉は人間たちの支配する地域と、ミューティ(突然変異体)たちが跋扈する危険地域に分かれており、ネルソン中尉たちは、それもまた神の思し召しだろうと考え、現状を変えるつもりがないが、一方で、ビルたちは、ミューティを退治して〈船〉の資源をすべて手に入れるべきだと考えている。ミューティとの対立は、ビルの意識と係わりなく、この世界を破滅に向かわせるベクトルであり、ゆえにこれがこの話の末尾に付け加えられた赤である)
  3. ヒュウは、二つ頭のジョウ=ジムというミューティに捕まる。これはマルファが病気になるのと同じ場所にある同じような新しい事件の発生である。ヒュウは素直にジョウ=ジムの奴隷となり、ミューティたちの奇妙な興味深いそしてどこかのんびりとした生活が描写されるが、これは曲りなりにも安定している〈船〉の世界の一面であるから、このシーンのイメージは青であり、ヤーコフがマルファの病気に気付きながらのんびりバイオリンを弾いているようなものである。ヒュウは人間の科学知識を披露するが、ジョウ=ジムにバカにされへこむ。自分が今まで常識だと思っていたことが否定されたからであり、病気になったのに奇妙に嬉しそうなマルファを見てヤーコフが薄気味悪く思うようなものである。
  4. ジョウ=ジムは、ヒュウの頭の良さに気付き、彼を操縦室に連れて行き、〈船〉の外の宇宙を見せる。〈船〉は宇宙を漂流する巨大宇宙船だったのだ。ここでストーリーは引き返せないポイントを通過したと言えるだろう。ちょうどマルファを医者に連れて行ったら治療できないと言われたようなものである。
  5. ヒュウは、ジョウ=ジムから本を借りて、弾道学、宇宙航行技術、船の操縦といった科学を猛勉強する。そして、人間の若い科学者を集めてこの宇宙船を操縦し、古い本(今では聖書のように宗教的な物語が書いてあると思われている)にこの船の目的であると書かれてあるところの、〈旅〉をやり遂げようとジョウ=ジムに提案する。ジョウ=ジムは、面白そうだという理由で、ヒュウを人間たちのところへ帰してやることにするが、ヒュウの提案については半信半疑であり、別れ際に「おまえは馬鹿だ」とそっけなく付け加える。マルファから死んでしまった赤ん坊や柳の木やそこで二人で歌を歌った話を聞いて、それでもまだヤーコフが「お前、夢でも見てるのさ」と言うようなものである。
  6. ヒュウは尊敬していたビルに会って話をするが、ビルはまったく信じようとせず、ヒュウは異端裁判にかけられ転換炉に入れられることになる。裁判でヒュウは、「それでも〈船〉は動いているんだ!」と叫ぶが、このような異端者を処刑することは中世的世界の安定に寄与するので、これは短い青い話である。
  7. ヒュウの幼馴染のアランの手引きで、ジョウ=ジムたちがヒュウを助け出す。そのとき追いかけてきたビルを捕虜にする。ヒュウは、ビルに船外の宇宙を見せる。ビルは、神聖な〈旅〉が信仰上の問題ではなく現実の問題であると知り、〈旅〉をやり遂げようというヒュウに賛成する。ビルまでが〈船〉を破滅へ向かわせる側になったので、これは真っ赤な短い話である。
  8. ヒュウたちは、有力な士官であるナービイを誘拐して船外を見せ、自分たちの味方に引き込む。ナービイは、〈旅〉をやり遂げるのは第二段階であり、第一段階として権力が必要だと言う。ナービイはジョウ=ジムたちの協力を得て、船長を殺して自分が船長になり、人間の世界を支配した。ジョウ=ジムは、新しく長い剣を作って、ミューティの世界を力で平定し始めた。ヒュウは、宇宙船の操縦方法の習得に没頭した。ナービイが味方になったことは、ビルが味方になったこととはまるで意味が違う。ナービイは、本心では、〈船〉が動いているとも〈船〉の外側があるとも信じておらず、窓から船外を見たことについても、宗教儀式に使う映像装置であろうと思った。ナービイの関心は権力を握り世界に秩序と安定をもたらすことであり、そのためにヒュウたちを利用しようと考えたのである。だからナービイは長めの青い話である。
  9. ヒュウたちは、着陸用の小型宇宙艇を発見し、そこに隠されていた航海日誌を読んで過去の反乱の真相を知る。この巨大宇宙船は数世代かけて地球からケンタウリに行き、新しい植民惑星を見つけるプロジェクトだったのだが、反乱が起きて上級士官や技術者が皆殺しになり、知識が断絶して、中世的迷信世界に退行したまま宇宙を漂流していたのだ。ヒュウたちはヤーコフがそうしたようにここでしばし感慨にふける。「ロスチャイルドのバイオリン」においても、「宇宙の孤児」においても、クライマックスの直前に過去を回想する赤いエピソードがあるのは興味深い。
  10. 目的地と思われる恒星は日に日に大きくなり、ヒュウたちは船を操縦して周回軌道に乗せ、惑星を捜す決意をし、それを船長であるナービイに報告に行く。しかしナービイは、操縦室を封鎖し、ミューティは武装解除させると言った。ジョウ=ジムは拒否したが、ナービイは裏で手を回して、ジョウ=ジムの手下たちを皆殺しにしていた。兵士たちが入ってきて彼らを連行しようとしたので、ヒュウたちは抵抗し、逃げ出した。彼らは、小型宇宙艇で直ちに船の外に出るほか逃げ道がなくなった。小型宇宙艇は、反乱のときにほとんどが失われ、最後に一台だけ残っていたのである。そしてこの〈船〉の真実を知るヒュウたちがその小型宇宙艇で逃げ出してしまえば、〈船〉は中世的迷信の中で漂流し続け脱出不能のまま破滅することが確定するのである。つまり、このシンプル・ストーリーは、それなりに安定していた中世的世界が破滅するまでの様子を段階的に描いていたのである。
  11. ジョウ=ジムは追っ手と戦って殺されたが、ヒュウたちは、女たちを連れ出し、小型宇宙艇に乗り込んだ。いくつもの幸運が重なって、ヒュウたちは、地球と同じ環境の惑星に着陸した。ヒュウたちは〈旅〉をやり遂げた。
 時代もジャンルも長さも異なるこの二つの小説、「ロスチャイルドのバイオリン」と「宇宙の孤児」の構成は、青で始まり、前半の漸進的な色合いの変化、中盤の不可逆的ポイントの通過を経て、後半の二度の揺り戻しの後の真っ赤な結末、というふうに、まったく同一である。
 そこでさらに、現代日本の作家によるシンプル・ストーリーを見てみよう。次に取り上げるのは、小野不由美の「月の影 影の海」である。
 「月の影 影の海」の冒頭は、女子高生・陽子の憂鬱な日常生活が描かれている。そこに表れるモチーフを順に取出していくと、悪夢にうなされて目覚め、セーラー服に着替えて登校、授業中の居眠り、放課後の担任の呼出しまで、ほぼ日常的な時間の推移に合わせてモチーフが並べられている。
 第一に、漆黒の中の紅蓮の光、その方から迫ってくる異形の獣の群れについて描かれている。そしてその獣たちは「彼女」を殺すに違いないと書かれている。次に一行空けて、「陽子は飛び起きた」とあり、「彼女」は陽子であり、陽子が夢を見ていたことが明かされる。その夢は一ヶ月ほど前から続いており、夢の中で妖獣は次第に彼女に近付いているという。
 まず夢の描写があり、その後に簡潔に夢についての説明があると考えられるので、ここまでをひとまとまりの話と考える。
 第二に、「セーラー服に着替えて下に降りた」陽子は、母親にまた髪が赤くなったようだと言われる。冒頭の「漆黒の中の紅蓮」のイメージがここで再び繰り返されて、髪を黒く染めるよう勧められる。その理由として、「女の子は目立たず、おとなしくしているのがいい」と言われる。章が改まって、陽子が通う高校について短くまとめられている。中学の成績からして教師からはもっと上位の高校の進学を勧められた。また陽子は制服が気に入っている高校が別にあった。しかし両親の言い付けに従って決めた平凡な女子校であり、入学して一年が過ぎようとしているが特に愛着はない。
 陽子の表面上の服従と意固地な沈黙は、漆黒の中の紅蓮のように、彼女の人格的危機を表現している。
 第三に、学校でイジメに加担する時の描写は、「こう言っておいた方が角が立たない」「情けをかけて周囲に逆らえば今度は自分が被害者になる」「気分は苦い」と続き、イジメを諌める勇気もなく、積極的に加担する勇気もないと語られる。これは、陽子の不甲斐なさを、ひとつ前の話と並立的に表しているとも考えられるし、より具体的に例を挙げて説明しているとも取れる。
 第四に、英語の授業中にうたた寝してまた妖獣に襲われる夢を見る。妖獣はすぐ側にいて、危険が抜き差しならないほど接近していることを告げる。英語の教師は、また赤毛について否定的な言葉で触れてくる。英語の教師から連絡が行ったらしく、放課後に担任の呼出しをうける。ここでも赤毛を染めろと言われる。
 以上、四つのモチーフが喚起するイメージをもう少し抽象的に表現してみると次のようになるのではないか。
  1. 漆黒の闇の中の紅蓮の炎
  2. 建前ばかりの大人と面従腹背の陽子
  3. 冷たいクラスメートと不甲斐ない自己
  4. 倫理的叱責
 「4.倫理的叱責」について補足しておくと、イジメに加担したことで叱責されるわけではない。それどころか、教師の叱責に反論しようとすれば、自然な赤毛の何が悪いんだということになり、事勿れ主義で本質を見失った大人達を批判することになり、それは消極的ながらもイジメに加担した不甲斐ない自己の否定に直結するのである。つまり、陽子の内面に注目すれば、教師の叱責はその表面的意味とは別に、陽子のうちに秘めた紅蓮の炎を激しく掻き立てるのである。そこで陽子の心理に注目して更に抽象化してみよう。
  1. 陽子の内面の不安
  2. 陽子の隠され押さえつけられた自尊心
  3. 不甲斐ない自己の再確認
  4. 繰り返し暴かれようとする陽子の本心
 冒頭の異様な夢を除けば、無神経な回りの人間たちと、反発を押し殺し言訳に終始する不甲斐ない陽子の姿が描かれているように思える。陽子はしかし、そのような自分に満足しているわけではないらしい。それは、「陽子は(いじめられる側にも原因があると)自分に言い聞かせる」というような間接的な表現から染み出してくる。ちょうど黒髪を伸ばすにつれそれに混じって本来の赤毛が目立ってくるように。従順に振る舞い大人しく謝る陽子に繰り返し浴びせられるクラスメートの冷笑と教師の叱責は、陽子の仮面を無理矢理剥ぎ取ろうとする妖魔の鋭い爪のようだ。
 私たちは、これら冒頭の四つのモチーフをひとまとまりのものとして、気弱な女子高生のモチーフを掴み取るだろう。
 さて、このあと陽子は異界に連れ去られ、ストーリーはクライマックスへ向けて段階的に展開していく。
 第一巻の終わりまでは、陽子は元の世界に帰る鍵である麒麟(王に仕える聖獣で時には人間の姿をとることもある)を探し、ストーリーの要所要所でその影を見かける。実はそれは、陽子を異界に連れ去った麒麟(彼の名は景麒)ではなく、敵対するある国の王の命令で陽子に妖魔をけしかける麒麟(彼女の名は縞麟)なのであるが、そこが物語の転機にもなっていて、全体を大きく四つに分けて考えることができるだろう。
 第一には、景麒に異界に連れて行かれて、途中で一人はぐれ、村人に助けを求めるが逆に捕まえられ、県庁へ馬車で護送されるまで。ここでは、剣で妖魔を切ることを嫌がり、目をつぶってしまうために墜落し、景麒とはぐれてしまう。そして村人に剣を渡してしまう。
 第二には、護送中の馬車が妖魔に襲われ、その時、縞麟と縞麟に捉えられた景麒の気配を感じる。馬車の中で海客(陽子のように異界へきた人間)はこの国では死刑になるかもしれないと言われたので、妖魔に襲われた時に剣を取り返して逃げ出す。その後も毎晩のように妖魔に襲われ、躊躇なく妖魔を切ることができるようになる。景麒を見つけようと決意し、そのためには目立たない衣服を手に入れなければならないと考える。そして人家に忍び込むが見つかってしまう。しかし人に剣を向けることはできないと思い直し、捕まることを覚悟する。意外にも、忍び込んだ家の女・達姐に親切にされ、母親の経営する宿屋で働かないかと言われ、そこまで二人で旅をするが、到着してみるとそこは娼家であり、娼婦として売られようとしていたことに気付く。
 第三には、達姐から逃げ出し、遊郭で男たちに声をかけられ、遂に人に剣を向ける。そこへ妖魔が襲ってきて、麒麟がいた気配もするがすぐに見失う。荷物を金に変えて、宿に泊まりながらあてなく旅を続けるうち、宿屋で働く海客の老人に出会い、同じ日本人であるということで心を許す。ところが、金を盗まれ逃げられてしまう。誰も信じられず、昼は街道沿いに歩き、夜は妖魔と闘うことを続けるが、強盗することはせず、飢餓に苦しむ。足を踏み外し谷へ転落し、動けないところを妖魔に襲われる。
 第四には、縞麟が登場し、陽子を殺せと自分の王に命令されているために、陽子の手の甲に刀を突き刺し、それでも麒麟の優しい本性からとどめを差すことができず、そのまま立ち去る。気絶後、手の甲から刀を抜き、痛みのため七転八倒するも、剣と共に景麒に渡された不思議な珠の力でなんとか命は取り留める。親切そうな母子が通りかかるが、人を信じることができず、飴と水を貰っただけでそれ以上の助けを断る。そこへさらに妖魔に襲われ、冷たい雨の中一晩中闘い続ける。珠の力でも及ばないほど傷つき、死を覚悟する。
 ここには、エイリアンのような段階的にスケールアップする目立ったモチーフはなく、「宇宙の孤児」のような二つの対立する勢力についても背景に退いていて、陽子の精神的成長に焦点が合わされている。最初は、剣を渡されても投げ出していたのが、妖魔を切ることを躊躇わなくなり、生き延びるためには人に剣を向けるまでになる。気弱で自分では何も決められない女子高生から、自分の力で生き抜こうとする人間へ変化していく。それは過去の自分の否定でありながら、同時に納得できる段階を一歩一歩踏んで過去の自分から変化していくということであり、その変化は、段階的である。
 私たちは、ここにも、青から赤へのイメージの段階的な変化を見ることができた。
 私たちが小説から受け取るモチーフは、もちろん小説の中に整列している文字の列によって規定されるわけだが、その関係をより具体的に見ていくと、冒頭のシーンでは、セーラー服を着た陽子が二階の自分の部屋から降りてきて、母親と会話し朝食後登校する。次に彼女が通う高校について短い説明があった後、教室のシーンになる。授業中に居眠りした陽子は、放課後、担任に職員室に呼ばれて注意を受ける。小説では朝食のメニューについて、登校の道順について、教室と職員室の位置関係について、また、親と子、教師と生徒の関係についての説明が省略されているが、かつて学生であったり子供であったりした私たちは、それらの意味関係を容易に補い、これらのモチーフの並びを簡単に意味付け結び付けることができる。つまり高校生だから登校したのだし、授業中に居眠りしたから放課後職員室に呼び出されたのである。そして小説中ではそのような意味関係を説明する文が最小限にとどめられている。読者である私たちは、夢のシーン、母との会話、教室でのイジメの看過、教師の叱責などのモチーフを見ている。その時、それらをまとめる意味として気弱で依存心の強い女子高生のイメージを心の内側に意識する。ちょうどシニフィアンがシニフィエを指し示すように、ぶつ切りに並べられたモチーフから、それらを統合するイメージが立ち現れてくる。シニフィアン自体には意味がないように、モチーフそれ自体は読者の前に投げ出され自分自身を説明しようとしない。それらの意味は読者が補うのである。そしてより上位のモチーフが下位のモチーフを統合するという時、読者は上位のモチーフに視座を置き、視界に並ぶ下位のモチーフを見ている。「気弱な女子高生」の観点から見て、「不安な夢」や「イジメの看過」や「親や教師の叱責」が結びつくのである。
 モチーフの階層は小説が長くなるにつれより高層になっていく。冒頭の気弱な女子高生は大きく四つの段階を経て少しずつ勇敢な女性に変化していく。四つの段階にはそれぞれ、村人・達姐・元日本の老人・通りすがりの母子が登場し、彼らとの関わり合いを下部構造として「依存→自立」全体を内含する新しい陽子のイメージが形成される。
 読者はモチーフの階層を一段ずつ登っていく。「セーラー服、登校、授業、職員室へ呼び出し」から「気弱な女子高生」へ、「気弱な女子高生、景麒の招聘、妖魔の襲撃、剣を取り闘う」から勇敢なヒロインのイメージへ。その様子は、遠近法によって描かれた風景画を見るやり方に似ている。「三角屋根、窓、窓の奥の人影」などの細部の理解から全体を民家であると認識する。家の前の大きな木と背景の森の木を比較して遠近の位置関係を理解する。ちょうどそのように読者はモチーフの位置関係を組み立てていく。そして風景画の鑑賞者が画家の視点を仮定するように、読者は「作者の言いたいこと」を仮定するが、その実体は読者の視点であり、モチーフが無矛盾に並ぶように彼自身の視座の位置を調整する作業なのである。そして一旦「気弱な女子高生」という視点が確定したら、それをまたひとつのモチーフとして、「勇敢なヒロイン」を支える下部構造とする。小説が長引くにつれ、さらに、陽子は実は異界の国、慶国の女王であり、慶国は異界にある十二の国の一国であり、それぞれの国にそれぞれの王と麒麟がいる……というふうにモチーフの下部は面積を広げ、高さはより高くなっていく。読者は何度も細部のイメージに立ち戻りながらも、より大きくモチーフを統合する高みへ向かって険しい斜面を登り続ける。
 あるひとつのモチーフを支える下部のモチーフは無限に必要なわけではない。ひとつのモチーフ(たとえば「気弱な女子高生」)のために数個のサブ・モチーフで足りるとすれば、小説を引き延ばしより多くのモチーフを結び付けるためには、サブ・モチーフを組み合わせて作り上げた新しいモチーフを、さらにサブとしてより大きなモチーフの下支えとしなければならない。小説のモチーフが階層的に積み上げられているのはそのため――ひとつのものをより多くのモチーフによって引き延ばすため――である。
 小説はモチーフが繋がる理由や根拠の説明を避ける傾向がある。それというのも、モチーフを組み上げ意味を掴む仕事をなるべく読者に任せて(その副次的効果として)豊潤なイメージを喚起させることが目的だからである。極力テーマの説明を避け、主として具体的なシーンの描写を積み重ねて作られる小説は、モチーフの関連付けと関連付けられたひとまとまりのモチーフ群から新たなモチーフを引き出す作業の多くを読者に任せる。ゆえに小説は、常識的な範囲内でモチーフを並べ(高校生だから登校した、など)特に必要な場合に限り説明を付加する。(麒麟は王を選ぶ生きものだから景麒は陽子を異界に招聘した、など)読者に多くを任せる以上、モチーフ同士の繋がりが常識的に理解し得るだけでなく、そこから読者が引き出す新たなモチーフもまた、読者にとって了解可能なものでなければならず、既知のものか、少なくとも既知の知識を組み合わせて理解できる範囲のものでなければならない。もとより異化は「石を石らしくする」ための技法であり、読者にとって未知のダイアモンドを差し示すものではないのである。

 モチーフには、省略してもプロットに影響のない自由なモチーフと、省略するとプロットの因果関係が断ち切られてしまう拘束されたモチーフの二種類がある。また、状況を変化させるモチーフを動的なモチーフ、そうでないものを静的なモチーフと呼ぶ。静的なモチーフは自由なモチーフであることが多いが、すべてがそうだというわけではない。(*11)
 「宇宙の孤児」においては、クライマックスの直前に過去を振り返るシーンが静的なモチーフであり、その中のかなりの部分は自由なモチーフである。
 ヒュウたちは、小型宇宙艇の中で古い航海日誌を発見し、その内容から、反乱が起きて文明が失われた様子が哀愁を帯びてひしひしと伝わってくる。この航海日誌はなぜこの場所で――クライマックス直前というストーリーのこの場所で発見されたのか? 最後に航海日誌を書き込んだ男は、他で見つかると燃やされてしまうから、あえてこの小型宇宙艇に隠したと述べている。このような詳しい理由の説明があるとき、私たちはむしろ疑って掛かったほうがよい。普通、モチーフの動機付けはドラマの中で自然に伝わるものであり、作者はなるべくくだくだしい説明を避けるものだからだ。そして因果関係の薄いモチーフが現れたら、それは、プロットではなく構成からの要請で、作者が多少無理をしてもそれをそこに挿入したかった可能性が高いのである。
 面白いことに、ヤーコフもまた、クライマックス直前に過去を思い出す。思い出すといえば、輝美も、第三章で火村に直接聞かれたときには思い出せなかったのに、第四章で突然枕カバーがなくなっていたことを思い出し、わざわざ自分から火村に電話をかけてきてそれを告げる。つまりは、ヤーコフも輝美も、思い出すべき(構成上の)時期を待って、そこで思い出すのである。陽子も、過去を振り返り反省するが、それは長い長い数々の試練によってクライマックス直前まで引き延ばされる。
 シンプル・ストーリーには、クライマックス直前に、過去の回想という自由なモチーフがしばしば挿入されるし、そこには構成上の重要な意味があると思われる。構造主義者たちはプロットに沿って要約するのを好み、自由なモチーフを捨て去ってしまうことがあるけれども、小説を把握しようとするとき、それは文字通りお話にならない間違いであろう。彼らに頼まず、自由なモチーフを切り捨てずに小説を要約する良い方法はないものだろうか。
 実は、そのような方法はよく知られている。たとえば、大江健三郎は一般読者向けの解説書の中で、小説の把握のしかたについて、次のように述べている。
 この分節化という言葉も、僕はそれをしばしば用いていくが、その切断と連続という意味のダイナミズムを生かしつつ、僕は言語学的なこの言葉の用法とは別にそれを用いる。すなわち、多様なレヴェルにおいて、はっきりしたまとまりをなすある部分を、他からくっきりと分離して把握し、全体へのつながりを考えるという意味に、僕はそれを用いる。たとえば小説における、想像力的なものを喚起する仕掛けとしての、イメージの分節化というように。(*12)
 僕は「小説の方法」で、小説のイメージの分節化ということをのべた。小説のシーンが様々に展開されて行きながら、文章としてその全体が切れ目なくつながっているものがある。そうしたあり方を、僕は分節化がよくできていない書き方と感じる。ある長さの文章・パラグラフにおいて、ひとつのイメージのかたまりを作る。そのようにして分節化したイメージを、かたまりからかたまりへ連結する。それをつうじて、小説の全体が作り出される。
 さらに分節化ということは、小説の様ざまなレヴェルで行われる作業である。小説において、それぞれの人物は、互いに分節化されていなければならない。人物たちをしてそれぞれに離れて立つことを、小説のなかでの基本態度としなければならないのである。分節化がよくなしとげられてはじめて、イメージのかたまりが、あるいは人物たちのおのおのが、相互に自立しながら、強い一体性、連帯を実現することも可能になる。(*13)
 大江の言う分節とは、あるイメージを持つひとまとまりのもののようだ。それは語句・文章・パラグラフの様々なレベルに見ることができるが、それら固まり同士が立体的に関連しあいながら小説全体が構成されるらしい。
 大江の言う分節には、動的なモチーフや静的なモチーフの区別がない。作者はあるイメージを読者に喚起させる仕掛けを作ろうとするし、読者はそのような仕掛けを探して、紙の上にどこまでも整然と印刷された文字の列を、いくつかのかたまりに分節化しようとする。そして分節化された各部分が立体的に繋ぎ合わされ、小説という建築物が構築されているのを読み取るのだ。
 河野多恵子は、まったく異なる言葉遣いで、同じ小説の立体的な構造について語っている。
 前章で、その作品の向おうとしているところの気配が導入部から伝わってくる必要がある、と書いたが、〈気配〉は読者に対する以上に、作者にとって大切なのである。導入部がしっかり書かれておれば、その作品で最も書きたいことは何か、どこに力点を置くべきかということが、その時もしっかり頭にあれば、導入部の〈気配〉が、次に書くべきブロック――つまり書きたいブロックを自然に告げ識らせてくれるのである。そして、そのブロックがモチーフの深い鋭い表現を担い得ておれば、そこから次のブロックが生まれてくる。先行のブロックとの間に飛躍や断絶があろうと(あるいはなくても)、「筋」「起承転結」指向ではあり得ない、本質的な脈略、呼応が存在する。念のために付記すると、私は仮に〈ブロック〉という言い方をしておいたが、〈一区分〉と思ってもらってもいい。
 そして、「構造」とは、もちろん作品によって数には大差はあっても必ず幾つかある、〈区分〉間の関係、呼応の様相である、と私は思っている。(*14)
 私には、小説の把握の仕方について、大江と河野がほぼ同じことを言っているように聞こえる。そして「分節」は河野の〈ブロック〉という言葉とほぼ重なるように思うし、河野はこれを述べた後で、吉行淳之介の短編を把握し要約するために〈ブロック〉に区切っていくのだが、その手つきは正に大江が言うところのイメージの分節化による小説の構造の立体的な把握である。
 小説を分節化して読んでいく時、作家もまた、そのように読まれることを期待し前提としながら小説を書いているようだということがわかってくる。私が次に大江や河野ではなく、また彼らのような純文学でもなく、クリスティを取り上げるのには、特に他意はないが、大江や河野の小説の把握の仕方が、一般的で普遍的であることを示す好例となるだろう。
 海水浴場を見下ろすテラスで歓談する滞在客たち。海辺ではパトリックが泳ぎ、沖には赤い帆の小型ヨットが見えた。浜辺へ上がったパトリックは妻クリスチンに呼びかけた直後、ホテルから歩いてきたアリーナを見かけ、磁石のように彼女に吸い寄せられた。それを見たクリスチンは急に立ち上がり、ホテルに駆け込んだ。
 これは、アガサ・クリスティの「白昼の悪魔」第一章四節(*15)のあらすじである。ここで私たちが受け取るイメージは単純で明快だ。それは三角関係、美しいアリーナとアリーナにのぼせ上がったパトリック、その妻クリスチンの間の三角関係である。それは読めば体感できるが、この短い一節が、人間の心にどのように作用してそのような鮮明なイメージを喚起させるのだろうか。あらすじでは省略してしまった静的なモチーフも含めて、箇条書きしてみよう。
  1. 牧師のスチーブンは、狂信的な熱情を持って、悪は実在すると叫ぶ。
  2. エミリーは、パトリックが泳いでくるのを見つけて、クリスチンに告げるが、クリスチンは、話を逸らすように、赤い帆のヨットが湾を横切っていると言う。
  3. ポアロは、海から上がってきたパトリックを見ながら、彼がとてもハンサムで誰からも好かれる純真素朴な性格だと思う。
  4. パトリックは妻のクリスチンに手を振り、クリスチンも「こっちへいらっしゃいよ」と応ずる。
  5. 大女優が舞台に登場するように、アリーナがやってくる。アリーナが赤毛の美しい女性であることが長く詳細に描写される。
  6. 男たちは色めき立ち、クリスチンは、冷ややかに「なんだか野獣みたい!」と言い、エミリーは、「あの女こそ悪魔の化身だ」と言う。
  7. バリー少佐は、インドで会った、性悪女の思い出話を始める。彼女も赤毛で、よその夫に手を出していくつもの家庭を壊したと言う。
  8. スチーブンは、「そんな恐ろしい女こそまさに――まさに――」と言って、その後は黙ってしまった。
  9. パトリックは足の方向を急に変え、アリーナのほうに行き、二人並んで歩き、アリーナが岩の横で寝そべると、その横に腰を下ろした。
  10. だしぬけに、クリスチンが席を立ってホテルに駆け込んだ。
 次に、箇条書きしたイメージがどのように分節化されるかを考えるのだが、そのために、それぞれの具体的モチーフが、どのようなイメージを持っているのかに注目して、もう一段抽象化してみよう。
  1. 悪は実在する?
  2. パトリックは純真素朴でハンサムである
  3. アリーナは美女である
  4. アリーナは悪人である?
  5. よその夫に手を出しいくつもの家庭を壊した赤毛の女が存在する
  6. アリーナはパトリックを引き寄せ、それを見たクリスチンは動揺した
 狂信的なスチーブンも、根拠を示さないエミリーも、真偽が定かでないので行末にクエスチョンマークをつけた。バリー少佐の話は、どこにでもある一般的な話なので、まあ、信じることにしよう。なお、赤い帆のヨットは、後半で麻薬の密売の合図であることがわかるが、それの伏線であり、だからこの分節の他のモチーフとは意味的な関連がなく、分節のイメージを下支えしないので、ここでは取り上げない。(つまり、伏線とはそのように置かれるものなのである)
 さて、読者は文字の列を上から下、右から左に向けて読みながら、分節化してイメージを形成していくのだが、その定義からして、イメージがより強まるように分節化するということになるだろう。また、私たちは、「月の影 影の海」の前半部の要約を試みた時、モチーフが階層構造を持つことに気付いたが、分節化されたイメージはいくつかに連合し、寄り集まって、それに下支えされて、さらに新しいイメージが喚起されるのである。
 そこで、「悪は実在する」、「純真素朴なパトリック」、「美しいアリーナ」のところまでイメージを読み取っていっても、これらのモチーフは意味的つながりがまだよくわからないし、だからイメージも連合しないのである。四番目に「アリーナは悪人である」という新しいアイデアが提出されるが、その理由は示されない。バリー少佐の話は、大昔のインドの思い出話であり、現在ここにいる誰とも因果関係がない。
 六番目に至って、私たちは、ようやく、アリーナとインドの赤毛女が、髪の色だけでなく、他の点でも似ているのかもしれないと思い当たる。つまり、〔5〕と〔6〕をまとめて、「アリーナはパトリックとクリスチンの仲を壊すかもしれない?」というイメージが喚起されるわけである。そのイメージを新しいモチーフとして、その他のモチーフと比較してみると、それが〔4〕と連合しやすいことに気付く。アリーナがよその家庭を壊すのであれば、ゆえにアリーナは悪人であると言えるし、つまりは、その二つのモチーフはそのような意味的関係によって統合できるだろう。そして「アリーナは悪女である」とすると、純真素朴でハンサムなパトリックこそ、その獲物としてふさわしいわけである。つまりは、そのような悪が、スチーブンの言う通り、この白昼の下に実在するということだろうか?
 以上のようなモチーフの階層構造を、図04に示した。この図を見ると、分節全体のイメージの喚起が、最後まで長く引き延ばされ続けることがわかる。もうひとつわかるのは、クリスティは、アリーナが悪人だとは一言も言っていない、ということだ。さすがに、クリスティは、フェアなミステリの女王である。しかし、ここでは、読者が分節化することによってイメージを活性化していく、その戦略に沿ってモチーフが並べられていることに注目したい。

 シンプル・ストーリーはどうしてこんなにも面白いのだろう。「ロスチャイルドのバイオリン」を読むときのはらはらどきどきするこの感じは、どこから来るのだろう。秘密を挿入した探偵小説が、秘密ゆえに読者の関心を惹きつけ、注意深くするために、異化効果が発揮されるというのは、理屈に適うことであるようだ。けれども時には、複雑で入り組んだ秘密を持つ小説よりも、「宇宙の孤児」のようなシンプル・ストーリーのほうが面白く感じることがある。なるほど、異化効果を生むために筋を複線化したり謎の数を増やしたりするわけだが、それでは筋が複雑になり謎の数が増えるにつれそれに比例して無限に小説の面白さが増大し続けるのだろうか。そういうものでもないだろう。それに、探偵小説に限らず、複雑な筋の小説は、シンプル・ストーリーの構成を下敷きにし応用している様子が透けて見えることがある。だから、小説の基本構成としてのシンプル・ストーリーを詳しく検討することは、きっと意義のあることに違いない。では、シンプル・ストーリーの面白さの秘訣とは何か。
 「ロスチャイルドのバイオリン」には、変化が描かれている。そう言うとなんとなくわかった気がするが、けれども、変化とはなんだろうか。モチーフが時系列順に並んでいるだけでは日記と変わらない。あるいは、モチーフが因果関係を持って並んでいても、それだけでは小説とは呼べない。小説中の人物の関係をいろいろ変化させても、それだけでは、読者は、ふーん、そうなんだー? という感じしか持たないのであって、それはテレビ画面に次々ニュースやCMやお笑い番組などが脈絡なく映ったり、ファッション雑誌をめくる度にモデルが色々なポーズを取ったりするのをぼんやり眺めているようなものである。つまりそういったものは、今ここで言うところの「変化」というには足りないのである。そうではなくて、「ロスチャイルドのバイオリン」を読んだときの、はらはらどきどきして先を読み進めるこの感じ、ヤーコフやマルファの生き生きとした目の動きや声や言葉の響きまでが伝わってくるような臨場感、そしてそれらが迫力とスピードを持って展開していくところのストーリーの面白さ、それら全体の読書体験から感じる、「変化」の感覚。その感覚を感じるためには、実際に自分が動いているような感じ、自分が変化の真っ只中にいるような感じを読者が体験できなければならないし、そうでなければ、そこに「変化」が描かれているとは言えないのである。
 部屋でテレビを見ていることに対して、同じように映像を使いながら、TDLやUSJのアトラクションは、座席を揺らしたり白い霧を出したりして、観客に視点の移動の「感じ」を与えるよう工夫しているところが興味深い。それに、映画でも、俯瞰的に世界を見やる映像だけではなくて、それとは異なるような、たとえば、主人公がボートに乗っているシーンの後で、ボートの先から次々後ろに流れ去る波しぶきを映したり、あるいは、地下道に逃げ込んだ登場人物の目から見るように、地下道の薄暗い穴を映し、回りの壁が後ろへ後ろへ流れ、下のほうには、登場人物の靴のつま先が出たり入ったりしているというような映像(地下道を奥へ進んでいく様子を表現している)もある。そしてそのほうがより臨場感があるわけだが、その臨場感とは何かというと、読者自身の視点が移動しているような「感じ」を与えるということである。
 視点とはいささか意味の広い曖昧さのある言葉であるが、小説においても、主人公の目から見るように情景が描写されていることがあるし、主人公に深く共感して、彼の目線でどきどきはらはらしたりする経験はよくあることだ。小説を読んで、変化を臨場感を持って体感するとき、そこに視点が関与していることは間違いないだろう。
 小野不由美の「月の影 影の海」は、一貫して陽子の視点に立って描かれている。陽子が目にしたものを目にした順に描いている。チェーホフの「ロスチャイルドのバイオリン」においても、私たちはまずヤーコフの気持ちになって、彼の痛みを我がことのように感じつつ読み取っていく。「ロスチャイルドのバイオリン」と同じ本の中に収録されている「浮気な女」(*16)もまた、同じ構成を持つシンプル・ストーリーであるが、しかし、この主人公はちょっと感情移入しづらい。
 若く美しい女優が実直な医者と結婚する。女優は絶えず周りからちやほやされて最初から尻軽な雰囲気を漂わせているが、冒頭では夫婦がとても愛し合っていることが強調される。しかし次第にその割合が変化していって、妻のほうが別の男と旅行に出かけたりするようになって、遂には浮気相手の男のほうに執着するようになっていく。けれども時折思い出したように夫への愛の言葉が語られ、どっちつかずの状況が長く引き延ばされる。その間、私たちは、浮気な女を少し突き放したように見てしまうだろうし、浮気な女と浮気相手、そして夫の三人の人間関係を少し離れて見る視点を持つだろう。
 北野武の「座頭市」は、大変成功した娯楽映画である。私はテレビで一度見たきりだけれども、ストーリーが明快で今でもよく覚えている。まずは、悪党どものグループがあって、そいつらは過去の強盗で貯めた金で、今は呉服屋を開いていい暮らしをしている。そして村を支配し村人をいじめている。昔こいつらに両親を殺された姉と弟が村にやってくる。彼らは芸者に身をやつして復讐の機会を狙っている。彼らを助ける騎士が座頭市である。一方、悪党どもは腕の立つ用心棒を雇う。クライマックスは、座頭市と用心棒が一騎打ちするのだが、ストーリーはそこへ向かってまっすぐ進んでいく。用心棒には病気の妻がいて、そのために金が必要だというエピソードが入る。座頭市は、悪党どもの経営する賭博場で、胴元のイカサマに気付き、争いになって、全員切り殺してしまう。これは座頭市が悪党グループに命を狙われる動機付けである。この時点ではまだ、姉弟の存在が悪党どもに隠されているから、別の理由が必要なのである。そんなわけで、座頭市と用心棒の対決が不可避である根拠が順を追って段階的に積み立てられていく。用心棒はめっぽう強いし、妻のためにどうしても負けられないが、かといって、彼に座頭市を討たせて、悪党どもに勝たせるわけにも行かない。観客は、不幸な姉弟に同情し、座頭市を応援しつつも、またあるときは、用心棒に感情移入したりもする。
 主人公に感情移入し、主人公の目線で物語世界を体感するシンプル・ストーリーは多いが、そうでないものもたくさんあるのだ。それどころか、私たちは、たとえば、俯瞰的な視点の歴史ロマンとか、想像力にとんだ未来SFとかにも感情移入することができるのである。私たちの視点は、登場人物の中に入り込んでそこから世界を見ることもあるし、彼の隣に座って、彼を友人のように応援することもあるし、小説内の人間関係や奇妙な社会の姿全体に深く感じ入ることもある。そのような場合の視点の変化は、先に挙げた、映画の登場人物の目線のカメラ・アングル、という比喩では説明できない。
 小説には読者の気を惹く意外性が常にあるが、それを単純化しモデルで示すと、たとえば、ある人物について、彼は一見優しそうだが、実は冷たいとか、逆に、ひどくぶっきらぼうに見えたが、実は温かい人だったとかであろう。さてそこで、「ぶっきらぼうに見えたが、実は温かい人だった」小説を書くためには、まず、彼がぶっきらぼうであるというイメージを喚起しなければならない。そのためには、ただ彼はぶっきらぼうであると書いただけでは駄目だということは、小学校の作文の時間に習った。彼がぶっきらぼうであることがよく分かるエピソードを考えなければならない。それは静的な描写かもしれないし、ストーリーを持っているかもしれないし、両方を併せ持っているかもしれないが、まあ、「彼はぶっきらぼうである」分節である。次に、彼が実は温かい人であったという分節を構築しなければならない。それは、「ぶっきらぼう」分節の次に置かれる。そして、「実は温かい人」分節は、「ぶっきらぼう」分節と、時系列的に過去になるか未来になるかわからないが、とにかく、通常は、違う時間の違う場所のエピソードだろう。(「ぶっきらぼうかつ温かい」分節ではなく、「ぶっきらぼう」分節の後に置かれる「実は温かい」分節だから)
 さて、ここで、「ぶっきらぼう」分節と「実は温かい」分節の時間的関係について考えてみると、(時間的前後関係が)どちらが先でも後でも構わない。ぶっきらぼうな現在を語って、実は過去、こんな優しいことをした人だというのが解ってもいいし、ぶっきらぼうな過去をまず語って、でも、時系列的にその後で、何らかの改心があって、実は温かい人だったとしてもいい。時間的順序を変えても、「ぶっきらぼうだが実は温かい」という意味関係は変わらない。
 しかし、まず、温かい人だということを延々と語った後で、物語の最後に、ぶっきらぼうである描写を持ってきたらどうなるだろう。そうすると全体の喚起するイメージが変わってしまうことは明らかだろう。
 まとめると、各分節の間に、時間的因果的関係が生ずるのは、分節に負う法則ではなく、分節の扱っている人物や事件の持つ性質である。小説は、時間的関係の過去と未来、因果的関係の原因と結果の、どちらを先に書いてもどちらを後に書いても構わない。小説における分節の(読まれる)順序は時間的因果的関係には束縛されない。そうではなくて、分節の順序は、それが喚起しようとするイメージによって決まる。
 ところで、「ぶっきらぼうだが実は温かい」と思ったのは誰か? そう聞くと、読者は、それは自分じゃない、作者か、登場人物の視点だろう、と言うかもしれないが、「自分の視点」とは何かについて、よくよく考えてみなければならない。たとえば、観客席でサッカーの試合をグラウンドに対して横から見ながら、実は観客の頭の中には、しばしば頭上から垂直にグラウンドを俯瞰する視点が構築されるのではないか。そしてその視点から見るグラウンドの中の選手は、その人間的属性を捨象され、番号や役割の名前で識別されているだろう。それは誰の視点かと言えば、当然それを想像しているご本人の視点だと言うほかない。
 デカルトが設定した自己は延長する客観世界を見る目としての視点であり、ブッダが存在しないと言った自己は、貪欲に追い立てられる苦しみの存在としての凡夫である。何が自分であるかは視点によって決まるし、私たちは様々なものを自分の視点にすることができるのである。小説について言えば、それの分節構造にあわせて読者が彼自身の視点を構築するのだ。その視点にどのような人物の名が冠されていようと、それどころか、人間の視点でない場合でも、それが読者自身の視点となるべく小説は構成されているのだ。
 でも、どうやって? 常に傍観者気取りで皮肉屋で注意散漫である読者に、シンプル・ストーリーは、どうやってそれを彼のものとして体感させるのか。
 シクロフスキーは、冒険譚には誤解や謎が横たわっている、と言っている(*17)が、確かに、「月の影 影の海」では、迎えに来たはずの麒麟が陽子を見捨ててしまったという誤解や、陽子が緑眼赤髪に変身し、言葉も理解できるし剣も使えるようになることの謎がある。「エイリアン」では、乗組員の身を危険に晒すような異生物の持ち込みがなぜか許可されてしまう。「座頭市」では、冒頭に悪玉の首領の背中だけが映って、顔が隠されている。「ロスチャイルドのバイオリン」や「浮気な女」では、ヤーコフや若い女優の心理が冒頭で秘密めかして描かれる。そしてそのどっちつかずの様子が、これからどうなるのだろう、というサスペンスを盛り上げるのである。
 一方で、ひとつひとつ見ていくと、大きな違いがあるようにも見える。まず、「エイリアン」は、卵を産み付けられて、それが生まれて、巨大化して、というふうに、前段のモチーフと次のモチーフの因果関係がはっきりしており、そして事件がスケールアップしていく。それに対して、「月の影 影の海」では、主人公が村人に会い、一見親切そうな女に会い、同じ日本の海客に会い、飴売りの親子に会うわけだが、これらのモチーフは、ただ陽子が異界をさまよううちに、偶然に出会うのであって、それぞれのモチーフの因果関係は弱い。また、事件がスケールアップしていくということもない。「月の影 影の海」では、陽子の内面的変化に焦点が合わされて、それが段階的に描かれているのである。「ロスチャイルドのバイオリン」や「浮気な女」も心理面に焦点化されているが、主人公にぴったり寄り添うのではなくて、やや外側から見ているように感じられる。「座頭市」は、主要な登場人物の心理変化や人間的成長はない。対立は外部に引き出され、善と悪の対決が描かれる。
 「座頭市」のような作品を見ると、宿命の対決に注意が向いて、それが物語のキモのように感じてしまうが、実は正義の味方が勝つに決まってるのである。そして先に登場したほうが正義の味方である。正義の味方と言って悪ければ、読者の視点に先に組み込まれるほうと言い変えてもよい。「レ・ミゼラブル」では元万引き少年のジャン・バルジャンが先に登場し、ピカレスク小説では悪漢が先に登場するが、それはそちらを先に視点に組み込ませるためである。そして、前半の漸進的なイメージの変化において、観客は一貫して座頭市の勝利への方向性を感じ取るのであるが、中盤での用心棒の抜き差しならぬ状況、そしてやたらめったら強いという事実が提出されることによって、イメージの揺り戻しが生ずるのである。用心棒は座頭市と決戦することを、必ずクライマックスまで待つ。決戦が目的ではなく、前半に漸進的に変化してきたイメージを、後半で揺り戻すことが目的だからである。座頭市と用心棒の対立が段階的によりのっぴきならなくなっていって、それがプロットの段階的展開を形成しているのである。「エイリアン」においては、段階的展開の動機付けが、エイリアンの巨大化・凶暴化だけに頼っているのに対して、「座頭市」では、座頭市と用心棒のそれぞれの人間的事情が、プロットの段階的展開の動機付けとなっている。対立はファーブラであり、シュジェートであるところの段階的展開に従属している。だから、このようなドラマのキモを、(ドラマ脚本家がよく使う言葉だが)対立とか葛藤とか枷とか呼ぶだけでは十分でない。二つの対立する勢力の力関係は、シンプル・ストーリーの二つの対立するイメージの段階的変化を形成するために奉仕し、そこから逸脱することはない。
 「宇宙の孤児」は、対立する二つの勢力が、どちらもその結果をよく理解していない点が、「座頭市」と違って見えるわけである。ヒュウとビルは、〈旅〉をやり遂げることばかりに心を奪われているが、その動機は、合理的な判断というよりは宗教的信念のようである。ナービイはミューティを討伐し人間世界に安定と秩序をもたらそうと考えているが、彼のやっていることが、実際にはより確実に世界を破滅へ導いていく。なるほど、「宇宙の孤児」は、そして「エイリアン」もまた、最後に少数ながら生き残る人間がいて、私たちは、「ヒュウはとうとう〈旅〉をやり遂げたのだなあ」とか、「最後には人間が凶暴なエイリアンに勝利したのだなあ」とかいった感慨を持ち、そこに何かしらテーマ性のようなものを感じ取るが、しかし分節のイメージは、二度の揺り戻しを除いて、一貫して、そして不可逆的に「安定→破滅」へ向っていくのである。
 「エイリアン」の冒頭では、人間たちが全員生きているから、それが青である。そうすると、遭難した不気味な異星人の宇宙船を探索して、隊員の一人が襲われて、すぐ助かってしまうところが、ちょっと赤である。助かったけれども不安な予感がある。それが冒頭だ。そして、実は助かってなくて、卵を産み付けられたのであって、それが腹を食い破って出てくるところが、恐ろしい赤である。でも、大きさはまだマムシくらいで、ネズミみたいに逃げてしまう。だからまだ青が大きいのだけど赤が増えてきたわけである。それから、隊員が一人ずつ食われていって、そのたびごとにエイリアンが急成長するが、これは赤の拡大である。前半戦、失敗続きの人間が、中盤になって火炎放射器を作ってそれでなんとかなるんじゃないかとちょっと期待してしまうが、これは、ヤーコフがだんだん赤くなりながらも、時どき家計簿に数字を書き込んだり、マルファの葬式が安上がりになったことに満足したりするのと対応している。そしてその直後にヤーコフが激しい孤独感を感じるのは、エイリアンを追い詰めようとした直後に船長が食い殺されてしまうのと対応している。そうやって何度か青に揺り戻しながら、全体としては、青から赤へ不可逆的に変化していくのである。
 だから、サスペンスを生むプロットの段階的展開という観点からは、「エイリアン」もまた、「安定→破滅」への変化を描いているのであって、結末の人間の勝利は、サスペンスとは無関係である。
 落語を聞いていると、いつのまにか物語の中に入り込んで、江戸の暮らしや風景までが目の前に浮かんでくるようだ。そして下げ(落ち)にくると、そこでふと話が途切れて、下げの理由付けについて考えてしまう。今まで広がっていた世界がふっと消えて我に返る気がする。つまりは、落語の下げとは、観客を物語世界から現実世界へ引き戻す働きをするのではないか。なぜそんな必要があるかというと、次の演者が次の物語を始めるために袖で待っているからである。だから観客を一旦現実世界に引き戻す必要があるのだ、そして「お後がよろしいようで」と言って次の噺家と交代するわけだ。
 「落ち」という言葉を辞書で引くと、結末という意味があるようで、ここから、小説の結末という意味にも使われることがあるようだ。小説を語る言葉は、他の世界の言葉を流用したり、構成だの視点だの、はなはだ意味の範囲のだだっぴろい抽象的な言葉を使うことが多くて、言葉の意味をいちいち定義しておかないと混乱することがよくある。小説の結末を「落ち」というと、それが実際に何を意味するのか話者によって異なるかもしれない危険がある。
 さてそこで、私はこれから、辞書に載っている落語の下げという意味で、「落ち」という言葉を使おうと思うのであるが、「エイリアン」のラストで人間が勝つのも、「座頭市」のラストで新しい家が建築されるのも、落語の下げと似たような機能を持っているのではないか、と言いたいのである。観客が、「凶悪なエイリアンに対して人間が勝利したのだなあ」とか「悪いヤクザたちがやっつけられて、村人が村を再建したのだなあ」とか思うとき、それは物語にどっぷりつかっている視点ではなくて、そこから離れて、物語を外から客観的に見る視点である。「ロスチャイルドのバイオリン」にしても、マルファもヤーコフも死んでしまって、ラストでバイオリンだけが残されたとき、そこに何かテーマ性を感じるのであるが、その感慨は、ストーリーを追いかけていた時のどきどきはらはらした気持ちとは異なって、もっと俯瞰的な態度である。また「浮気な女」のラストで、実直な医者が死んで、浮気な妻が反省するとき、彼女は画家と浮気をしていたのだが、芸術がどうだの演劇がなんだの言っている生活力のない浮気相手よりも、勇敢に伝染病の患者を治療して、自分も感染して死んでしまった夫のほうがずっと男前であったと読者は思うし、友人の医者が「科学に奉仕して、科学のために死んだのだ」と叫ぶのを聞いて、その通りだ、ここには人間精神の気高さが描かれているのだ、と思うに違いない。それは物語を俯瞰する態度であり、そこから物語の意味――そして物語が照らす私たちの人生の意味――を引き出す作業であり、全国の中高生が国語の時間にやることである。ところで、画家といえば、同じ本に納められている「中二階のある家」(*18)では、無為の徒である画家のほうが主人公になっている。そして彼は、貧しい人のために毎日尽くしている勤勉なリージヤに、無為徒食な生活を厳しく責められるのである。リージヤは若く美しい女性である。そしてこの話の結末はどうなるかというと、主人公の画家はリージヤではなくて、その妹のミシュスに求婚するのである。ここでは、作者は、理知的なリージヤではなくて、心の寂しさを抱えている画家に同情的であるし、そんな画家がミシュスに求婚する結末を感傷的に描いている。
 つまり、これはどういうことなのか。ここではっきりしているのは、チェーホフ自身が「科学に奉仕して、科学のために死んだのだ」と言ったのでなく、実際にそう思っているのでもないということだ。いや、仮にそう思っていたとしても、そう思っていたからそのような結末にしたのではないのである。あくまで小説の落ちの付け方として、「浮気な女」では、無為徒食な画家と浮気した女のほうに反省させ、一方、「中二階のある家」では、勤勉で誠実な上にたいそうな美人であるリージヤを袖にして、ロリコン丸出しでその妹に手を出した無為徒食な画家のほうに同情を寄せる結末をつけたのである。
 ヒッチコックの「鳥」は、「エイリアン」と同じ構成を取りながら、「エイリアン」のようなモチーフの因果関係が捨て去られている。私たちが(天才監督のように自覚的でないにせよ感覚的には)よく知っているシンプル・ストーリーの構成に則れば、必ずしも因果関係を必要とせずにイメージを伝えられることを、「鳥」は証明した。それでも、ラストで少数の人間が生き残るのは、そのような落ちが、ヒッチコックによっても捨て去り取り外すことのできなかったなんらかの機能を持っているからに違いない。
 シンプル・ストーリーの冒頭にあるのは、いつも秘密めかした何かであるが、謎というほどではなく、単に説明が先送りされるだけである。でも大体こんな答かなという感じが伏線として冒頭に置かれるのである。だから冒頭と結末だけ並べてみると、特に意外性はないのである。ホビットは旅に出て、そして帰ってくる。冒頭でヤクザ者を皆殺しにした座頭市は、ラストでさらにたくさんのヤクザ者を皆殺しにする。不気味に登場したエイリアンは、最後の最後まで人間を食い続ける。陽子が赤毛で学校にも家にも居場所がなかったのは、異界の生まれだったからだ。ヤーコフのバイオリンは、誰もが納得する普遍的なヒューマニズムの象徴だ。
 シンプル・ストーリーの冒頭と結末は対になっている。ジェームズ・ボンドは毎回ラストでボンド・ガールといちゃいちゃするけれども、それに対応して、ボンド・ガールは冒頭から登場する。そしてすぐにボンドといいムードになるのだが、そのたびに事件が起こって、お楽しみが先送りされ続ける。毎度そうやって引き延ばしが行われるために、彼の映画の落ちは常にボンド・ガールとのベッドシーンなのである。
 引き延ばしをプロットの段階的展開によって行うとき、それはいつまでも続けることができる。たとえば、ピッコロ大魔王が最強だと思っていたらサイヤ人が登場し、さらにスーパーサイヤ人が登場する(*19)というふうに、プロットの段階的展開は、それ自体では自律的な終わりを持たない。そこで、このようなシンプル・ストーリーには、落ちが必要なのである。
 シンプル・ストーリーの落ちは物語の枠組みを前景化する。つまりこの部分は、読者にひとつの物語を読んだ、読み終わった、という感覚を付与する機能を持っているのだ。物語に浸っていた読者の肩を叩いてこれは物語なんですよと耳打ちする働きをしているのだ。そうやって、そこまで段階的に展開してきたプロットを止めるのだ。
 シンプル・ストーリーの構成は、「冒頭と結末」と「その間」の二つに分けて考えることができる。考えてみれば、これこそが、シクロフスキーの言う引き延ばしの最もシンプルな例である。自分の頭の悪さに唖然としてしまうが、引き延ばしとは、柔らかいひとつのゴムのようなものを長く伸ばすと言う意味ではなかった。あるモチーフの登場を遅延させるという意味であった。つまり遅延されるモチーフと強く引き合う何かが冒頭にあって、その間が引き延ばされるのだ。彼は、彼にとってあまりに自明のことだからか、明言していないようだが、「冒頭と結末」と「その間」は機能の異なる別の分節としてはっきり区別しなければならない。
 まとめると、互いに引き合う冒頭と結末の間にプロットの段階的展開を挿入し引き延ばすことによってサスペンスが発生する。これを逆から言えば、自律的な終わりを持たないプロットの段階的展開を、「冒頭と結末」で挟み込み切り取ることによって、それをひとつの物語にしている。
 「その間」のプロットの段階的展開は、前半の漸進的な色合いの変化と、中間地点の不可逆的ポイントの通過と、後半の二回の揺り戻しを持っている。これをサスペンスの盛り上がりとか、クライマックスとか言ってるだけでは、それは、白米をうまい飯と言い換えるようなもので、何も説明してないに等しい。そうではなくて、これが視点に作用する具体的な技法であると理解しなければならない。
 青から赤への不可逆的変化を読者が理解した途端に、シンプル・ストーリーは、それを揺り戻してみせるのである。お化けを怖がる妹に、大丈夫、お兄ちゃんだよ、と呼びかけておいて、そのすぐ後に、お化けの真似をして再び彼女を怖がらせるようなものである。頭では不可逆的な変化を理解しながら、目の前の揺り戻しにびっくりしてしまうのであり、当たりまえの認識をひっくり返すということであり、けれどもやはりそれはお兄ちゃんなのであり、だとすれば自分の視点のほうになんらかの不備があるのであり、それをあらためて自分のこととして受け止め自覚化する方向へ彼女を促すのである。
 このようなイメージの揺り戻しは、短い小説にもあるし、長い小説にもあるし、長い小説の短いエピソードの中にもある。
 「カラマーゾフの兄弟」の前半に出てくるリザヴェータのエピソードを読むと、ドストエフスキーがあざといほどのストーリーテラーであるとわかるが、これはイメージを揺らすわかりやすい例でもある。リザヴェータの短い一生は、上巻の第三編のニに短くまとめられている(*20)が、そこをさらに箇条書きにして要約してみよう。
  1. リザヴェータの死後、この町の信心深い老婆たちの多くが目を潤ませて回想した。
  2. 一四〇センチそこそこしかない、二十歳、娘らしい、健康そうな、幅の広い、血色のいい顔、完全に白痴、眼差しは柔和、少しも動かず、不快。
  3. 年中粗末な肌着、はだしで通す。羊の毛のように縮れた、恐ろしく濃い、ほとんど真っ黒な髪が、巨大な帽子みたい。いつも地べたや泥濘で眠る、髪は土や泥にまみれ、木の葉や木片や、鉋屑などがこびりついていた。
  4. 父親は身代を潰した、宿無しで病身の、イリヤという町人、酒に溺れ、裕福な町人の下男、母親はずっと以前に他界、父親はリザヴェータが帰ってくると容赦なく打ちすえた。
  5. 神がかり行者、リザヴェータに、誰もが食べものや衣服を与えた。彼女はおとなしく着せてもらって立ち去り、どこかですべて脱ぎ捨て、肌着一枚にはだし姿に戻ってしまう。父親が死ぬと、ますます町中の信心深いひとたちすべてに愛された。少年たちでさえからかったりいじめたりせず小銭を恵んだ。
  6. リザヴェータは貰った小銭をすぐに募金箱に入れてしまう。貰った白パンは最初に出会った子供か、町の一番裕福な奥さんに与える。奥さんたちは喜んで頂戴する。彼女自身は黒パンと水だけ。商店で彼女が一休みして、高価な商品や現金が放り出されていても、彼女が盗む心配はまったくなかった。彼女は教会の入口や菜園の隅や玄関の土間や牛小屋で寝た。体格は並外れて頑丈だった。
  7. 上流人士には、リザヴェータが高慢さからそんなことをやっていると言い張るものもいた。しかし一言もしゃべれないのだし、高慢さなぞ関係ない。
  8. 夜遊びし酔払った上流人士たち五、六人が、山ごぼうの茂みの中で眠っているリザヴェータを見つけ、破廉恥な冗談を飛ばし、こんなけだものを女として扱うことができるだろうか、いやできないと結論した。ただ一人、その場にいたフョードルだけが、できるし一種特別な刺激があっていいと言い切った。
  9. 五、六ヵ月後、リザヴェータが妊娠していることがわかり、人々は激しく憤った。裕福な商家の未亡人が、お産までリザヴェータを家に引き取り厳重に監視したが、結局は、最後の晩に、リザヴェータはこっそり家を抜け出し、フョードルの家の庭に現れた。グリゴーリイが産婆を呼んで、赤ん坊は助かったが、リザヴェータは明け方息を引き取った。
 この短いリザヴェータの分節の中でも、特に気になるのは、ある描写がイメージにまとまるとすぐに、いやそうではない、というような描写が次々に現れて読者を戸惑わせるところである。最初に、信心深いひとたちすべてに愛され、少年たちまでが彼女に優しいと書いておきながら、その後、酔っ払った男たちが、彼女を見て、「このけだもの」と言い切るのである。そしてそう言われてみれば、若い娘が肌着ひとつで冬でもはだしで町なかを歩き回るのを、何か聖なるものとしてイメージしていたのは、前段の描写にひきずられてのことであって、彼らの発言が、彼女に対するもっとも手垢の付いた、つまりは自動化されたものの見方だろう。あるいは逆で、彼らの身も蓋もない発言こそが、貧しい乞食女の真実の姿であり、彼女を十分に保護できないくせに、時おり小銭を恵んで、何か良いことをしたつもりになっている小市民たちの欺瞞を穿っているのかもしれない。そして前段の聖なるイメージのほうが、故意に美化され作られたイメージかもしれない。それが急激に揺り戻されるのである。そしてその構成は、フラクタルのように細部でも繰り返され、「信心深い老婆が目を潤ませて、二十歳、娘らしい、健康そうな、幅の広い、血色のいい顔」ときて直後に「完全に白痴」、「眼差しは柔和」でつかの間引いて、「少しも動かず、不快」と突き落とす。まるで柔道の有段者に手もなくひねられるように、読者は軽く揺さぶられ、(むしろ自分の体重によって)あっさり投げ飛ばされてしまうのである。
 シンプル・ストーリーは小説の基本構成であり、より複雑な構成を持つ小説のそこかしこに下敷きされ応用されている。このようなイメージの揺り戻しの構成は、読者が覗いている彼のカメラを強く揺さぶり、ぶれさせることに喩えられるだろう。そうやって、読者に対して、そのカメラはあなたのカメラであり、あなた自身が見ているのですよ、と言うことによって、小説は、繰り返し、それが読者自身の視点であることを暴こうとするのである。
 小説の基本構成がたくらんでいるのは、読者が読者自身の視点として主体的にそれを構築するよう仕向けることであり、言い換えれば、日常の中で転寝してしまいがちな彼を、揺さぶり起こし、小説の中に蠢いている〈現実〉に引きずり降ろそうとする策略である。

(了)



図表1〜4
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脚注
*01.「ロシア・フォルマリズム」、ミシェル・オクチュリエ、白水社(文庫クセジュ)、一九九六、七十頁
*02.「散文の理論」、ヴィクトル・シクロフスキー、せりか書房、一九七一、三六頁
*03.「スウェーデン館の謎」、有栖川有栖、講談社文庫、一九九八、三三三頁
*04.「ボヘミアの醜聞」、アーサー・コナン・ドイル、青空文庫、一九九八 The Baker Street Bakery、大久保ゆう訳 http://www.aozora.gr.jp/cards/000009/card226.html
*05.「ノーウッドの建築家」、アーサー・コナン・ドイル、青空文庫、二〇〇一  エゴイスティック・ロマンティシスト、枯葉訳 http://www.aozora.gr.jp/cards/000009/card3394.html
 この作品の真犯人は、自分が殺されたとの偽装工作を行い、自分自身は、自宅の隠し部屋に隠れるが、さっさと失踪し、変装でもしておとなしく暮らしていたほうが安全だろう。しかしそれではホームズが犯人を、火を焚いて隠し部屋から文字通り燻り出す面白いクライマックスのシーンに辿り着けないので、それまで彼には隠れていてもらったのだろう。
*06.「散文の理論」、ヴィクトル・シクロフスキー、せりか書房、一九七一、二五六‐二五七頁
*07.「まだらの紐をめぐる冒険」、アーサー・コナン・ドイル、青空文庫、二〇〇〇  秋桜舎、山本ゆうじ訳 http://www.aozora.gr.jp/cards/000009/card535.html
*08.「赤毛連盟」アーサー・コナン・ドイル、青空文庫、一九九九  The Baker Street Bakery、大久保ゆう訳 http://www.aozora.gr.jp/cards/000009/card8.html
*09.「人気作家10人が教える新人賞の極意」、友清哲、二見書房、二〇〇二、九八頁
*10.「チェーホフ 短編と手紙」、アントン・バーヴロヴィチ・チェーホフ、みすず書房、二〇〇二、に収録
*11.「文学テキスト読解法」、パオロ・ラゴーリオ、而立書房、一九九七、三五頁
*12.「小説の方法」、大江健三郎、岩波書店、一九九三、十一頁
*13.「新しい文学のために」、大江健三郎、岩波書店、一九八八、一九四頁
*14.「小説の秘密をめぐる十二章」、河野多恵子、文藝春秋、二〇〇三、一五八頁
*15.「白昼の悪魔」、アガサ・クリスティー、早川書房、一九八六、二一‐二五頁
*16.「チェーホフ 短編と手紙」、アントン・バーヴロヴィチ・チェーホフ、みすず書房、二〇〇二、に収録
*17.「散文の理論」、ヴィクトル・シクロフスキー、せりか書房、一九七一、二七二頁
*18.「チェーホフ 短編と手紙」、アントン・バーヴロヴィチ・チェーホフ、みすず書房、二〇〇二、に収録
*19.いずれも鳥山明の大長編漫画「ドラゴンボール」(集英社)の登場人物
*20.「カラマーゾフの兄弟」、ドストエフスキー、新潮社、一九七八、上巻 一八一‐一八七頁
文献
ロシア・フォルマリズム
散文の理論
スウェーデン館の謎
ボヘミアの醜聞(青空文庫)
ノーウッドの建築家(青空文庫)
まだらの紐をめぐる冒険(青空文庫)
赤毛連盟(青空文庫)
人気作家10人が教える新人賞の極意
チェーホフ 短篇と手紙
文学テクスト読解法―イタリア文学による理論と実践
小説の方法
新しい文学のために
小説の秘密をめぐる十二章
白昼の悪魔
宇宙の孤児
カラマーゾフの兄弟

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